シリア

シリア
سوريا (スーリーヤ) (アラビア語)
Syria (スィリア) (英語)

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シリアは北方でトルコ、南方と東方でアラブ圏、西方で地中海世界と接する、文明の十字路とも呼べる地域を領域とする国です。その歴史は大変古く、氷河期の終結と共に地球が温かくなり、各地で人類がようやく本格的に活動を開始し始めた紀元前8000年頃には、豊かな土壌を持つこの地では既に農耕が開始されていたほか、紀元前3000年頃には都市国家の先駆けとなる数々の小規模な定住都市が一大文化圏を構成し、後にメソポタミア(現在のイラク)や地中海沿岸、そしてエジプトに至る広大な交易ルートの中核地として栄えました。現在もシリアの首都となっているダマスカスも、その頃には都市としての機能を整えていたことから、現存する都市の中では世界最古の都市と称されることもあります。このように人類史揺籃(ようらん)の地として繁栄してきたこの地は、当然様々な文明が領有を目指して進出し、古代アラム人の都市国家から始まったシリアの文化は、アッシリア、ヒッタイト、フェニキアといった諸国家の統治を経て、キュロス2世率いるアケメネス朝ペルシア、次いでアレクサンドロス(アレキサンダー)大王の征服によるギリシャ人の進出により、その性質を変えながらも発展を続けていきました。アレクサンドロス大王死去後は、後継者争いからその帝国は3つに分裂し、当地はセレウコス朝という王朝が本拠地として支配を担ったものの、徐々に外圧により勢力を衰退させていき、紀元前1世紀にはローマ帝国の属州となりました。ただ、ローマ時代にもパルミラといった、現在も都市遺跡として知られる諸都市が栄華を誇り、この地域そのものが持つ文化力の高さと、経済的な底力を垣間見せています。それは7世紀にこの地域がイスラム圏の一部となった後も変わらず、ダマスカスがウマイヤ朝の都となるなど、その権勢は頂点を極めました。

しかし西暦750年にウマイヤ朝が倒れ、アッバース朝が起こると、都は現在のイラクの首都であるバグダードに移され、ダマスカスを含むシリアは農業生産や商業の拠点としての機能は維持したものの、政治的な重要性は徐々に低下。アッバース朝の衰退後は幾多の王朝が交代にシリアを統治し、16世紀にはオスマン帝国が支配権を獲得しました。同帝国の支配が揺らいだ19世紀末以降はこの地域の多数派となっていたアラブ人、特に新興の港湾都市ベイルート(現レバノンの首都)市民を中核に、アラブ民族主義運動が勃興するようになり、徐々にシリア各地にも派生。これはやがて反乱と独立闘争の色彩を帯びる(アラブ反乱)ようになり、20世紀に入るとトルコ人が支配する帝国の統治体制は維持が困難となりました。第一次大戦で帝国が敗戦を迎え、崩壊の過程をたどる中、聖地メッカの太守にしてアラブ反乱を指導したフサイン・イブン・アリーの息子であり、アラブ世界随一の名門家系であるハーシム家を率いるファイサル・イブン・フサインを君主とするシリア・アラブ王国の独立が1920年に遂に宣言され、シリアは一旦は独立国となったものの、オスマン帝国崩壊後の中東地域はイギリスとフランスが密約により分割統治を決めていたため、王国は建国からわずか4ヶ月ですぐさま占領され、国際連盟の承認という大義名分のもとで、フランスの委任統治地域となってしまいました(注1)。フランスによる統治は段階的にシリアへの自治権を認めつつ、領域の中でも特にキリスト教が多い南西部沿岸のレバノンを分離し、いずれ独立するであろうシリア国家とは別の、フランスの拠点となる新国家を作ることを狙ったもので、1930年に自治政権としてシリア共和国の樹立を認め、1936年には独立条約を締結。1943年に領域からレバノンを分離させられるという屈辱はあったものの、第二次大戦後の1946年に正式な独立を達成しました。その後の現代シリア史は下記の旧国旗の項目を参照して下さい。

政治体制の変化に伴い、シリアの国旗はコロコロと変わりました。現国旗は1958-1961年のアラブ連合共和国時代の国旗を1980年に復活させたもので、赤、白、黒、緑は汎アラブ色(アラブの連帯を表す色)と呼ばれます。赤は殉教者の血と革命を、白は善行と平和を、黒は戦いを表します。2つの緑の星は、かつてはアラブ連合共和国時代の構成国だったエジプトとシリアを象徴していましたが、現在はアラブ諸国の団結という抽象的な意味合いに留まっています。

縦横比:2対3

【旧国旗】
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1920年3月から7月の4ヶ月間だけ存続した、シリア・アラブ王国の国旗です。赤、黒、緑、白の4色は前述のアラブ反乱で用いられた旗に由来する、アラブ民族主義者の象徴色であり、イスラム圏で栄えた歴代王朝のうち、特に重要な4つを象徴すると同時に、赤は民族解放の為に流された血を、黒は他民族により支配された暗黒の歴史を、白は宗教的な清廉さを表すほか、緑は預言者ムハンマドのターバンの色が由来とされるイスラム教徒の聖なる色とされます。ここに、ハーシム家のシンボルである七稜星が白抜きで廃されていますが、これはイスラム教の聖典『クルアーン(コーラン)』第1章7行、つまり信仰告白(シャハーダ、注2)を象徴すると同時に、全アラブ人地域の統一を示しています。1958年までの旧イラク王国国旗のほか、現在も唯一ハーシム家が王位を掌握しているヨルダンの国旗にも、この七稜星は描かれています。

シリア・アラブ王国は、全イスラム教徒の聖地であるメッカの太守位を世襲し、古くは預言者ムハンマドの親戚の家系であったとされることから、アラブ随一の名家と目されたハーシム家の利用価値に目を付けた西洋勢力により、同家を率いるファイサル・イブン・フサインを担ぎ上げる形で、アラブ世界で最初の近代国家として建国されました。しかし、イギリスとフランスはオスマン帝国を揺るがす目的でアラブ人に親しい姿勢を採りながらも、第一次大戦が終結したあかつきには、オスマン帝国の支配下にあったアラブ圏を分割統治する密約(サイクス・ピコ協定)を締結しており、戦後実際に占領軍を送り込んだため、程なくして王国は瓦解。密約でフランスの勢力圏とされたこの地は、同年に設立された国際連盟によって「委任統治領」とされ、その施政権をフランスに委託するという形で事実上の植民地支配を受けるようになりました。

ただ、フランスにとっても宗教的に複雑な背景を持つこの地を長く抱え込むつもりは無かったようで、地中海東部の要衝として軍事的にも経済的にも有用であり、かつキリスト教徒が多く親西洋的な雰囲気が強かったベイルート、すなわち現在のレバノン周辺にさえ影響力を及ぼせれば、残りの地域はアラブ人国家として独立させても良いと考えていたらしく、1930年には自治国の樹立を承認。それに伴い、1932年には自治国の旗として下記の国旗が制定されています。

Flag_of_Syria_(1932-1958_and_1961-1963).png
上述のような経緯でフランスの統治下に入ったシリアですが、1930年にシリア共和国の名で自治国家の結成が認められ、1932年には緑、白、黒の三色旗に3つの赤い星を入れた旗を「国旗」として制定することが許されました。各色の配置バランスや図柄は異なりますが、アラブ反乱旗や旧シリア・アラブ王国旗の配色を踏襲するデザインであり、シリア人の独立国家獲得に向けた反骨心がうかがえます。各色の意味合い自体は変わらないものの、中央に置かれた3つの星は、ダマスカスを中心に領域の大半を占めるスンナ派地域、ラタキアやタルトゥースといった沿岸部で一大勢力を築くアラウィー派地域、イスラムを名乗りながら独自の道を歩むドゥルーズ派(注3)が勢力保つ各地域を象徴し、それらが宗派的な対立を乗り越えて融合することによって、全てのシリア人が団結し、真の「シリア国家」を築き上げるといった意味が込められています。

こうしてフランス統治下の自治国家としてスタートしたシリア共和国ですが、1936年には将来的な完全独立を念頭に置いた条約をフランス本国と締結し、第二次大戦中の混乱を経ながらも、戦後の1946年には正式に独立を達成しました。ただし、フランスが勢力圏として最も維持に固執したレバノンだけは、シリア独立の3年前、既にレバノン共和国という別の国として独立させられており、歴史的にレバノンも自国の領域と見なしていたシリアは激しく反発。また、1948年には南方でユダヤ人国家イスラエルも建国され、シリアは独立国家としての門出を迎えた当初から、既にパレスチナをめぐるアラブ人vsユダヤ人、そしてレバノンをめぐるイスラム教徒vsキリスト教徒という極めて複雑な国際情勢の渦中に身を置かねばなりませんでした。

当然、国内各勢力は混迷する国際情勢に引き込まれ、おのずと対立していくことになりますが、政権に限らず、当時のアラブ諸国の民には、処々の問題を棚上げしてでも実現すべき悲願がありました。すなわちアラブ民族主義の成就、西洋諸国の都合で引かれた既存の国境線の消滅による「統一アラブ国家」の実現です。対立するシリアの各勢力もこの一点だけでは一致しており、シリア政府は1950年代にアラブ世界で絶大な支持を得たエジプトのガマル・アブドゥン・ナーセル大統領と接近。度重なる交渉を経て、1958年に両国は遂に統合。新たにアラブ連合共和国(UAR)の樹立を宣言し、シリアはUARを構成する1州となりました。それに伴い、上記の国旗も廃止されています。

United_Arab_Republic.png
1958年にエジプトとシリアが統合し、新国家として誕生したアラブ連合共和国(UAR)の国旗です。アラブ民族主義の典型である4色を基調とし、2つの星で統合した2ヶ国を象徴しています。現在のシリア国旗もこれと同じですが、意味合いは前述のように異なるので注意。

さて、アラブ統合の先駆けとして発足したUARですが、その実態は人口や軍隊は多いものの経済的には総じて貧しいエジプトが、古くから農業や商業の中心地として発展してきたシリアの富を、ナセルの号令のもとで搾取する体制に他なりませんでした。法制上、エジプトとシリアの地位は対等とされたものの、官吏の任免もエジプト人に利益が回るよう手配され、反対勢力には容赦なく弾圧が加えられるなど「エジプト優位」の政策は明らかであり、シリア人のナセル、そしてUARそのものに対する視線はまたたく間に冷たくなっていきました。

結果、シリアでは高まる国民の不満を背景に1961年にクーデターが発生し、UARの解消とシリアの再独立(その際に国名はシリア・アラブ共和国に改称)が宣言され、UARは結成からわずか3年で崩壊することとなりました。ただしナセル率いるエジプトはその後も「アラブの盟主」を自認し続け、いずれ自国の元に全てのアラブ国家が統合されるという理念を捨てることが出来ず、ナセル死去翌年の1971年まで単独でUARを国号として名乗り続けていました。その後のシリアでは独立時の国旗が一時的に復活した後、下記の1963年クーデターを経て新国旗に移行しています。

2nd Republican IQ
UARの解消により改めて単独の国家としての地位を回復したシリアですが、国内からエジプト人を放逐することは出来ても、シリア人の政治家同士の対立には相変わらず無力なままでした。混迷を極める内政と、立ち直らない経済に加え、一国が主導権を牛耳る形以外での「真のアラブ統合」も進まず、極めつけはいつまでも自国に煮え湯を飲ませ続けるイスラエルが勢力を拡大していく状況を受け、内的にも外的にも袋小路に入り、シリアの一般国民は閉塞感を強めていました。そんな中、UARとは異なる形でのアラブ統合を打ち出し、密かに支持を広げ、1963年には軍部の支援のもとに、クーデターで瞬く間に実権を掌握した政党がありました。アラブ復興社会主義党、いわゆるバース党です(バースはアラビア語で「復興」の意)。この政党は「アラブは1つ」の名目のもと、シリアのみならず各アラブ諸国で活動する世俗主義政党であり、その運営は既存の国境線を超えた包括的な全アラブに及ぶ、とされていました(実際には各国ごとに支部を置く形で活動)。

バース党はシリアで政権を握ると、従来のアラブ民族主義路線をより強硬に反映するため、国旗を上記のように改めました。アラブ統合の急先鋒となったシリアに加え、シリアと同じ年にバース党がクーデターを起こし権力内に入り込んだイラク、そしてUARは解消したものの依然として単独でUARを名乗り続け、統合運動の中核にあったエジプトの3ヶ国を象徴するこの旗は、シリア一国にとっては、旧UAR国旗から星が1つ増えただけ、という小さな変更点ですが、国際的にはシリアと共にバース党が政権を動かせる立ち位置を得たイラク(1968年には完全に権力を掌握)が、国旗を全く同じものに変えた、すなわち国家を超えてシンボルを共通のものとした、という点で重要でした。程なくしてバース党のシリア支部とイラク支部は路線対立から袂を分かち、アラブ統合の主導権をめぐってエジプトとも対峙するようになりましたが、バース党が支配する国が2つ存在するということ自体が、単独の国家としての核となる国是を失っていたシリアには、当時は何よりの求心力ではありました。

その後、シリアは他のアラブ諸国と共にイスラエルに対して挑んだ第三次中東戦争で敗北し、南西端の水源地であるゴラン高原を占領されましたが、バース党政権自体は対イスラエル強硬派と慎重派の権力闘争の結果、ハーフィズ・アル=アサド率いる慎重派が1970年に政権を牛耳ることで存続し、以後アサド家を頂点とする支配体制が確立。以後、シリアは国内的には社会主義的な世俗路線のもとで引き締め政策を進めつつ、対外的にはイスラエルや西洋諸国と一定の距離を置きながら、現在に至るまでバース党政権が続いています(イラクでは2003年のイラク戦争によりバース党政権は崩壊)。

アラブ共和国連邦
1972年、かつて「アラブの狂犬」と呼ばれ、旧来の統合運動とはまた違った急進的な路線を推し進めたリビアの指導者ムアンマル・アル=カッダーフィの提案により、シリア、エジプト、リビアの3ヶ国が、前述のUARより緩やかな連合体アラブ共和国連邦(FAR)を結成し、3ヶ国が共通で上記の国旗を用いるようになりました。FARはたとえ西洋によって引かれた国境線であっても、アラブ統合の目標の前にはいずれ消し去るべきとされる境界ではあっても、現状としてそれぞれの国には独自の文化が存在し、確固たる意識が存在することを認め、旧UARのような拙速な統合はせず、国家機構や政治機能は当面は現状を維持し、加盟国の主権国家の地位も保障するという、極めて緩やかな紐帯を形成することで結成に至りました。その共通旗には、預言者ムハンマドが属したクライシュ族の象徴であり、アラブ世界でよく使われるクライシュの鷹という紋章が配されています。下部のリボンに書かれたアラビア文字は「アラブ共和国連邦」を意味します。

しかしこの連邦も、度重なるイスラエルとの戦争で疲弊したエジプトが中東戦争の継続を断念し、イスラエルと単独で和平を結んだことで1977年に瓦解しました。その後、リビアは一夜にして特徴的な緑一色の国旗をカッダーフィ政権崩壊まで用いることとなり、シリアも1980年にはUAR時代の国旗を再度採用し、以後アラブ統合運動は中核となる国家や指導者が失われ、急速に失速していくこととなったのです。

なお、その後のシリアではバース党シリア支部長兼シリア・アラブ共和国大統領となったハーフィズ・アル=アサドが、2000年までの約30年間にわたる長期独裁政権を率い、強権的な手法ながらも混迷していたシリアの政局に安定をもたらし、継いでその次男であるバッシャール・アル=アサドが権力を世襲して現在に至っています。当初、後継者として父から帝王学と政治のしきたりを叩き込まれていた長男バースィルが権力を引き継ぐ予定だったものの、その事故死により不意に後継者となったバッシャール(従来は眼科医を目指して学問と医療啓発活動に没頭していた)に政権や軍部を牛耳る力は無く、シリアの政治は個人独裁から集団指導体制に移行するものと見られ、父の時代よりも穏健な統治が期待されました。実際に一定の改革開放路線が採られるようになっていましたが、不十分だという国民の不満の高まりや国際社会の外圧を受け、政情はかえって不安定化しました。そこに、2011年より拡大したアラブ諸国の民主化運動、いわゆる「アラブの春」に触発された反バース党系反政府勢力との紛争が重なり、情勢は急速に緊迫の度合いを増しました。バッシャール率いる政権側も次第に硬直化し、西洋諸国が支援する反政府勢力と、ロシアやイランの支持を受ける政権派の間で内戦が泥沼化。その権力の空白を突く形で過激派組織に国土の内陸部を制圧され、無法地帯の様相を呈するなど、情勢は2016年10月現在に至るまで改善する傾向を見せず、かつてオリエント世界の中核として繁栄した往年の輝きは取り戻せていません。


シリア・アラブ共和国
الجمهورية العربية السورية
(アル=ジュムフーリーヤ・アル=アラビーヤ・アッ=スーリーヤ)
Syrian Arab Republic (スィリアン・アラブ・リパブリック)


Map_of_Syria.gif

統計データは原則として2015年時点のもの。ただし長引く内戦により正確な統計値が算出されていない項目も多く、推計値のみの記載に留まる部分が多いことは留意されたい。

[地理]
位置:アジア
面積:約18.5万km² (日本のおよそ半分)
人口:約2226万人
都市人口率:57.7%
首都・最大都市:ダマスクス (ア:دمشق 英:Damascus)
主要民族:アラブ人75%
       クルド人9~10%
       トルクメン人4~5%
       アッシリア人3~4%
       他に少数のアルメニア人、北コーカサス系など。
主要言語:アラビア語が公用語で、国民の8割が母語として使用
       する。他言語の話者も、生活上の必要性に応じてアラ
       ビア語を第二言語として習得しており、民族をまたぐ共
       通語として機能する。他にクルド語、アラム語、トルクメ
       ン語などの各民族語。外国語では英語とフランス語が
       教育言語として用いられるが、話者はある程度の教育
       を受けられる都市部の上流階級に限られる。
主要宗教:イスラム教87%
        スンナ派74%
        シーア派系諸派(アラウィー派が主)13%
        少数のアフマディーヤ教団も存在。
       キリスト教10%
        正教会7%
        少数のカトリック系諸派、アルメニア使徒教会、マロン派など。
       ドゥルーズ派3% (注3)
      
[政治・軍事]
独立:1922年6月28日(自治国)、1946年4月17日(完全独立)
国連加盟:1945年10月24日(原加盟国)
政治体制:共和制、大統領制
元首:大統領
    直接選挙制、任期7年、3選禁止(注4)。
政府:閣僚評議会(内閣)
    首相と閣僚は大統領が任命。
議会:一院制の人民議会
    250議席。直接選挙制(大選挙区制)。任期4年。
政党制:アラブ社会主義復興党(バース党)による一党優位制
     (形式上は多党制)
国政選挙権:18歳以上の国民全て
兵役制度:徴兵制
国防費:不明 (25~35億米ドルと推計される)
軍組織:シリア・アラブ軍
     陸軍11万人
     海軍5000人
     空軍2万7000人
     防空軍3万6000人

[経済・通信・その他]
中央銀行:シリア中央銀行
通貨:シリア・ポンド (pound, SYP)
国内総生産(GDP):不明 (220~260億米ドルと推計される)
1人当たりGDP:不明 (1400~1800米ドルと推計される)
GDP構成比:農林水産業15~20%
        鉱工業15~20%
        サービス業60~65% (2014年推計)
労働人口:358万人
失業率:不明 (50%前後と推計される)
輸出額:21億4000万米ドル
輸出品:原油、精製石油、香辛料、果物、ナッツ類、リン鉱石、繊維原料、家畜
輸出先:イラク65%、サウジアラビア11%、クウェート7%、UAE6%、リビア5%
輸入額:66億6300万米ドル
輸入品:穀物、機械類、砂糖、化学繊維、鉄鋼、化学薬品、自動車、ゴム製品
輸入元:サウジアラビア28%、UAE14%、イラン10%、トルコ9%、イラク8%
固定電話回線数:408万2000回線
携帯電話回線数:1390万4000回線
国別電話番号:963
ccTLD:.sy
インターネット利用者数:約550万人
車両通行:右側通行
平均寿命:75.0歳 (男性72.5歳、女性77.4歳)

[日本との関係]
国交樹立:1953年12月
相手公館:大使館 (東京)
駐日相手国人数:517人 (永住者44人)
相手輸出額:不明 (200~300万米ドルと推計される)
相手輸出品:石鹸、魚介類、家畜
日本公館:大使館 (ダマスクス)
       内戦により2012年3月より一時閉鎖中。
       ただし業務は駐レバノン大使館で継続されている。
在留日本人数:日本政府は安全上の理由から、シリアに滞在する日本人
          数を非公開としており、詳細は不明。
日本輸出額:不明 (8000~9000万米ドルと推計される)
日本輸出品:ゴム製品、精密機器、機械類、化学繊維、自動車と部品
現行条約:1953年 貿易取極
       1957年 司法共助取極
       1967年 日本青年海外協力隊派遣取極
       1985年 技術協力協定

(注1)
シリア・アラブ王国の崩壊により放逐された国王ファイサルは、後にイギリス委任統治領メソポタミア、すなわち現在のイラクで改めて名目上の王として担がれ、独立後はイラク国王ファイサル1世として君主位を保持した。イラクでは1958年までファイサル1世、ガージー1世、ファイサル2世の3代にわたって、ハーシム家を王家とするイラク王国が存続したが、面目と地位をイギリスに救われた形となったハーシム家と王国政府に、国内の反英感情を抑えることは出来ず、王国の統治をイギリスによる間接支配と見なす軍部によって、1958年にクーデターが起こされ、新たにイラク共和国が成立したことに伴い、王政は終焉を迎えた。

(注2)
信仰告白(シャハーダ)とは「アッラーの他に神は無く、ムハンマドはアッラーの使徒である」と個人が宣言すること。すなわち、イスラムの唯一神たるアッラーだけを神として認め、他のいかなる神も廃することに賛同する、と明言する行為のこと。この言葉を他のイスラム教徒や権威あるイスラム指導者が認める場で発した瞬間から、その人物はイスラム教徒として受け入れられ、イスラム共同体の構成員になるという(ただしシャハーダの口述はアラビア語で発した場合に限られる)。

(注3)
ドゥルーズ派は、シーア派系のイスマイル派から11世紀頃に分かれたイスラム教の一派だが、『クルアーン(コーラン)』とは異なる独自の聖典を持つこと、メッカを聖地と見なさず巡礼もしないこと、断食が義務化されておらずほとんど行う者がいないなど、一般的なイスラム教の教義からの逸脱が目立つため、大多数のイスラム教徒からは異端視され、イスラム共同体(ウンマ)の一員とは認められていない。そのため統計上もイスラム教徒には含まれず、独自のカテゴリが設けられている。

(注4)
2012年の憲法改正により、それまで人民議会が1名を候補者として選定した後、国民投票で信任する形式だった大統領選が、複数候補による競争選挙へと移行した。また憲法改正に伴い、大統領の3選禁止事項が盛り込まれたが、2000年より在任中の現バッシャール・アル=アサド大統領のそれまでの任期は、再選回数としてカウントされないこととなった。


《国名の由来》
アラビア語ではسوريا(スーリーヤ)と表記される。

紀元前から既にこの地域(現レバノンを含む)はシリアと呼ばれており、非常に古い地名であることから、確証が取れる由来は不詳。だが古代帝国アッシリア(アッカド語で「日の出」という原義から「東方」を意味する)から来ているとする説が有力視されている。現在も極少数だが、古代アッシリアの版図(現在のシリアやイラク)にアッシリア人の末裔が存在している。

旧国名
1920 シリア・アラブ王国
(ア)المملكة العربية السورية
  (アル=マムラカー・アル=アラビーヤ・アッ=スーリーヤ)

(英)Arab Kingdom of Syria
  (アラブ・キングダム・オブ・スィリア)
1930-
1958
 シリア共和国 (1946年まではフランス委任統治下の自治国)
(ア)الجمهورية السورية (アル=ジュムフーリーヤ・アッ=スーリーヤ)
(英)Syrian Republic (スィリアン・リパブリック)
1958-
1961
 アラブ連合共和国
(ア)الجمهورية العربية المتحدة
  (アル=ジュムフーリーヤ・アル=アラビーヤ・アル=ムッタヒーダ)

(英)United Arab Republic (ユナイテッド・アラブ・リパブリック)

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プロフィール

嫁ドリル

Author:嫁ドリル
国旗と酒をこよなく愛する関西女。
カイロ、ドバイ、カルガリー駐在員を経て、現在は関東で働きながら旦那と1女1男の4人暮らし中。

国旗に関しては、まずは基礎知識カテゴリを熟読して下さい。

ツイッターやってます。基本的に更新情報はここでつぶやいてます。

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