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サウジアラビア

サウジアラビア
السعودية (アラビア語)
Saudi Arabia (英語)

Flag_of_Saudi_Arabia.png

サウジアラビアは西アジアに位置する世界最大の半島、アラビア半島の8割近くを占める広大な国家です。国土のほとんどは不毛な砂漠で、近代までは交易隊(キャラバン)と遊牧民が行き来するだけの荒涼とした土地でしたが、その領内にメッカメディナというイスラム教の2大聖地を抱えることから、古くから信仰上の重要性は認識されていました。中でもメッカはイスラム教の聖典クルアーン(コーラン)により、信徒は一生に一度は巡礼(ハッジ)することが義務付けられており、そのための交通網は早くから整備され、交通の要衝としての性格も兼ね備えていたようです。そのような背景を持つこの地には18世紀以来、リヤド(現首都)を中核とする内陸のネジド地方の豪族サウード家と、イスラム教の純化運動を唱えていたワッハーブ派という2大勢力が広がり、両者は密接な関係を築いて支配域を拡大していきました。当然、こうした動きに反発する勢力もおり、およそ150年にわたって内乱状態が続きましたが、20世紀初めにサウード家がネジド首長国の独立を勝ち取ると、競合関係にあったラシード家のジャバル・シャンマル首長国、ハーシム家のヒジャーズ王国といった周辺諸国を段階的に征服。1920年代後半に入るとサウード家の優位が揺るぎ無いものとなり、1932年に現領域の統一が完了。初代国王アブデルアジーズ・イブン・サウードによりサウジアラビア王国の建国が宣言され、以後2大聖地を抱くイスラム世界の盟主として特殊な地位を築きながら、現在まで独立国家を維持しています。

このように信仰と結び付いた猛々しい建国史を持つサウジアラビアですが、現在は何と言っても石油大国として知られます。1938年に最初の油田が発見されて以降、その莫大なエネルギー資源を武器に国際社会への影響力を強め、重要な資源供給国として一定の地位を確立するようになりました。日本が輸入する石油も半数以上がサウジアラビアと隣国のアラブ首長国連邦(UAE)の2ヶ国からのものであり、非常に結び付きが強い国と言えます。巨額のオイルマネーの流入は遊牧民中心のこの地の社会も一変させ、小さな内陸の町に過ぎなかった首都リヤドは現代的な摩天楼へと変貌し、経済的にも富裕国として一目置かれています。もっとも、西洋的な民主主義や人権、自由といった価値観の受け入れは、イスラム世界の伝統を重んじる立場から断固として拒否としており、政治的には政府の要職を王族であるサウード家が牛耳る絶対君主制であるほか、イスラム教の中でも極めて保守的なワッハーブ派(広義にはスンナ派に属する)を国教としているため、旧態依然とした社会観が広く残っており、現代でも勧善懲悪委員会(いわゆる宗教警察)という中世的な組織が維持されている数少ない国でもあります。これは西洋諸国から少なからず批判されていますが、やはり資源という「現物」を持つ力は偉大なようで、この国の機嫌を損ねると自国のエネルギー需要を満たせなくなることから、各国首脳が大っぴらにサウジアラビアの体制を非難することはありません。

前述のようにイスラム教の宗派の中でもとりわけ戒律の厳しいワッハーブ派を国教としており、王家の正統性や国家体制もイスラムの教義に依拠していることから、国旗にもイスラム色が強く反映されています。国旗の地色はイスラム教の預言者ムハンマドのターバンの色が由来とされる聖なる色の緑で染められているほか、イスラム教の信仰告白(シャハーダ, 注1)がアラビア語で大きく描かれ、その下には初代国王アブデルアジーズの剣が白抜きで配されています。これはイスラム教と2大聖地(メッカとメディナ)を防衛する決意を示しており、サウジアラビアという国家がイスラムの聖地を握る宗教国家であることをうかがわせます。またサウジアラビア国旗の注意点として、他のほとんどの国の国旗と異なり、ポール(旗竿)が右側に付きます(すなわちホイストとフライが通常とは逆になります)。そのうえイスラム教の聖なる言葉が書かれた国旗のため、かなり使用に制約がつく国旗です(裏面から見てもちゃんとシャハーダが読めるように作らないといけない、縦向きや半旗にして掲げてはいけない、シャツなどに印刷してはいけない、など)。それだけ神聖な旗として扱われているということですね。

縦横比:2対3

【旧国旗】
Flag_of_the_First_Saudi_State.png
現在の王家であるサウード家が歴史の表舞台に登場したのは、現リヤド市周辺のネジド地方(半島中部)を本拠地とする王朝(第一次サウード王国)の支配者として領域を拡大し始めた18世紀中頃とされています。当時のアラビア半島は名目上、オスマン帝国の間接支配を受ける領域とされていましたが、帝国内で広がるイスラム教の解釈は支配層の都合の良いように改変され、イスラム共同体の長としてその正統性の守護者にふさわしく振る舞うべきはずのオスマン皇室は腐敗・堕落している、と主張する当地のスンナ派宗教指導者ムハンマド・イブン・アブドルワッハーブが宗教的な純化・復古運動(ワッハーブ運動)を展開。これをサウード家が支援し、両者は一体となって拡大を繰り返しながら、1802年にはイスラム教の二大聖地であるメッカとメディナを含むヒジャーズ地方(半島西部)まで征服。一時は現在のサウジアラビア領を包括するほどの広大な領域を支配するようになりました。

当初は辺境の砂漠地帯で起こった小さな反乱と侮っていたオスマン帝国も、さすがにこれには危機感を抱き、当時属州であったエジプトにワッハーブ運動とサウード家の討伐を命令。1811年からサウード=ワッハーブ同盟に対して本格的な攻撃を開始し、1813年にはメッカを奪還。帝国のアラビア半島に対する支配権は瞬く間に回復していき、1817年には遂にサウード家の本拠地であるネジド地方にまで進出。「帝国軍」の錦の御旗を掲げた膨大なエジプト軍が展開し、包囲作戦によって同盟は追い詰められることになりました。その後もしばらく膠着状態が続きましたが、内陸かつ砂漠地帯で補給もままならない同盟側の劣勢は明らかであり、翌1818年には遂に陥落。第一次サウード王国は崩壊し、この「反乱」の首謀者たるサウード家とワッハーブ運動の指導者の多くが帝都イスタンブールまで連行され、処刑されたといいます。

第一次サウード王国の国旗は、現サウジアラビア国旗と同様、イスラム教の聖なる色である緑の地色に、月を配した意匠となっています。月もまたイスラム教を象徴する重要な意匠であり、特にその宗教圏が概して炎熱の砂漠地帯である中東においては、穏やかな夜を表す月は非常にありがたい存在だったとのこと。ただ、前述のようにサウード家にはオスマン帝国と激しく対立した歴史があり、そのオスマン帝国の国旗にも月が描かれていたことから、これ以降のサウード家のシンボルに月が用いられることは、国旗・国章共になくなりました。

Flag_of_the_Second_Saudi_state_and_the_Emirate_of_Nejd.png
第一次サウード王国が滅び、当時の主要な指導者が処刑された後も、サウード家とワッハーブ運動に対する支持は少なからず存続し、同盟の生き残り達、特にサウード家の復興という重大な役割を負うトゥルキー・ビン・アブドラによって、エジプト軍撤退後の1824年にはリヤドに再び王朝(第二次サウード王国)が樹立されました。その王朝は第一次サウード王国ほど勢力を拡大することは出来なかったものの、ネジド地方並びにペルシア湾沿岸(半島東部)の一部を支配することに成功しています。また、この頃になるとワッハーブ運動は単なる宗教運動体という枠組みを越え、ワッハーブ派と呼ばれる、スンナ派の中でも特に厳格な宗教解釈を行う一派となっており、サウード家における唯一の公式なイスラム教解釈として取り入れられるようになりました。

ただ、第二次サウード王国は内紛の多い不安定な政権で、1836年にライバルのラシード家が北部のハーイルを中核とするジャバル・シャンマル首長国を建国すると、その外圧に徐々に浸食され、次第に統治の実権を奪われていきました。名目的なサウード家の権力はその後もしばらくは残されたものの、有名無実となったその存在は1891年、ジャバル・シャマル首長国による本拠地リヤドの占領という形で幕を閉じ、サウード家は命からがらクウェートまで逃げおおせるという屈辱を味わうこととなり、第二次サウード王国は滅亡しています。しかしサウード家も前述のトゥルキーのひ孫であるアブデルアジーズ・イブン・サウードのもとで、父祖の地であるリヤド並びにネジド地方の奪還を亡命先から虎視眈々と狙っており、1902年の大規模戦闘でリヤドを奪還して勢力を回復。新たにネジド=ハッサ首長国を樹立し、以後半島の支配権をめぐって熾烈な勢力争いが繰り広げられるようになります。なお、現在のサウジアラビアはこのネジド=ハッサ首長国(ネジド首長国)を直接の起源としており、ネジド首長国を第三次サウード王国と呼ぶことも多いようです(すなわちサウジアラビアという国そのものが、第三次サウード王国が現在まで続いている存在とも表現できます)。

第二次サウード王国並びにネジド首長国の国旗は同じ意匠で、緑の地色と白い帯、そして現在とはかなり異なる手描きのような書体であるものの、サウジアラビア国旗にも描かれている信仰告白で構成されています。第二次サウード王国の滅亡とネジド首長国の建国は歴史年代的に非常に近く、両者の連続性を物語る意匠と言えるでしょう。1921年廃止。

Flag_of_Nejd_(1921-1926)_.png
ネジド首長国はその後も勢力の拡大を続け、1921年には遂に宿敵ラシード家のジャバル・シャンマル首長国を滅ぼし、これを併合しました。それに伴い、アブデルアジーズの称号はそれまでの首長からスルタン(国王)へと格上げされ、国名もネジド・スルタン国へと改称。国旗も変更され、この頃よりアブデルアジーズの愛用剣が国旗にも描かれるようになりました(向きが現在と逆であり、また刀身がカーブを描いているという差異はあります)。また同時に、ホイスト側に置かれていた白い帯も抹消されています。1926年廃止。

ただサウード家がラシード家の放逐に全力を注いでいる間、半島の情勢は主にイギリスとフランスの介入で激変していました。相次ぐ外国からの侵攻に加えて、第一次大戦の影響で死に体となっていたオスマン帝国は、二大聖地メッカとメディナを抱えるヒジャーズ地方を、イスラム教の預言者ムハンマドの血統を引くと主張するアラブ世界の名門ハーシム家に与え、1916年にヒジャーズ王国という新たな国の建国を認めてしまっていたのです。英仏両国は大戦中、自らの息の掛かった政権を戦後の中東圏に残そうと、アラブ世界屈指の名門家系であるハーシム家を巧みに自国勢力に取り込み、その名声を利用してイラク、シリア、トランスヨルダン(ヨルダン)、そしてヒジャーズといった中東各地にハーシム家の各分家を頂点とする自治国を結成させ、間接支配を目論んでいました(現在までハーシム家の支配が存続しているのはヨルダンのみ)。もちろん、ハーシム家の存在は半島平定を目指すサウード家にとっては非常に目障りであり、特に二大聖地を抱えるヒジャーズの征服は、「純粋なイスラムの教えの体現者」を名乗るワッハーブ派にとっても悲願で、ネジドは度々ヒジャーズに攻撃を仕掛けていくようになります。

Flag_of_Nejd_(1926-1932)_.png
新たに登場したハーシム家というライバルへの対策は、1921年のラシード家放逐後に本格化し、サウード家率いるネジドは聖地領有を目指してヒジャーズへの侵攻を繰り返しました。折しもイスラム共同体の長として君臨していた庇護者オスマン帝国が滅亡し、国民国家トルコ共和国となってアラブ世界への支配が終焉を迎える中、古い血縁に基づく淡い支持と遠く離れたイギリスのわずかな支援無しに成り立たない国を任されたハーシム家は、土着の権力者として力を蓄えたサウード家に太刀打ち出来ず、1924年にはメッカが、翌1925年にはメディナがネジドの手に落ちることとなりました。そして1926年、ヒジャーズ全体がネジドの手に落ち、ハーシム家はアラビア半島で最も重要な地点を失うこととなったのです。

ヒジャーズの征服を終えたネジドは、その後も一時的にヒジャーズ王国を存続させ、1927年にはヒジャーズ王位をネジドのスルタン、すなわちサウード家が兼ねるという同君連合(ヒジャーズ=ネジド王国)を成立させました。これはかつてのヒジャーズ国民を慰留しつつ、徐々にサウード家の支配を受け入れさせるための暫定的な措置であり、それが落ち着いた1932年には遂に両国は正式に合併され、激動の半島情勢を主導したアブデルアジーズ・イブン・サウードを初代国王とするサウジアラビア王国が成立することとなったのです。

この国旗はネジドとヒジャーズが同君連合を結成していた際、ネジド側の国旗として掲げられていたもので、従来の国旗から剣を外した上で、平和を表す白い枠で従来のネジド国旗を覆う意匠となっています。平定が完了し、サウード家への帰順を求められたヒジャーズへの配慮が見られるデザインですね。1932年、両国の正式な合併に伴い廃止。

Saudi_Arabia_1932.png KSA_(1934-1938)_201803111142279a0.png
1932年に正式に発足したサウジアラビア王国の国旗(左の旗)は、当初はヒジャーズへの配慮からかホイスト側に白い帯が付されており、また初代国王の剣が前述の旗とは逆の向きではあるものの復活しました。1934年には白帯が細くなり(右の旗)、代わりに文字が少し大きくなっています。1938年廃止。

Flag_of_Saudi_Arabia_1938-1973.png
1938年に制定されたサウジアラビア国旗は、1921年のネジド国旗を髣髴とさせる、文字の非常に大きなデザインとなっています。それまでの国旗とは異なり白い帯は排除され、同国が完全にサウード家の支配下に入ったことをうかがわせる緑の地色が目を引く意匠ですね。1973年に国旗のデザインに関する詳細な現行法が制定されたため廃止され、現行の国旗に移行しました。


サウジアラビア王国
المملكة العربية السعودية
Kingdom of Saudi Arabia

Map_of_Saudi_Arabia.gif

統計データは原則として2016年時点のもの。

[地理]
位置:アジア
面積:約215.0万km² (日本の約5.7倍)
人口:約2857万人
都市人口率:83.5%
首都・最大都市:リヤド (ア:الرياض 英:Riyadh)
民族:サウジアラビア国籍61%
    アラブ人55%
    他の民族(アジア系とアフリカ系黒人が大半)9%
   外国籍39%
    インド人9%
    シリア人8%
    パキスタン人6%
    フィリピン人5%
    バングラデシュ人5%
    エジプト人3%
    イエメン人3%など。
言語:アラビア語が公用語で、ほとんどの国民が母語として使用す
   る。外国人労働者はそれぞれの母語も家庭内やコミュニティ
   内で話す。民族・国籍をまたぐ共通ビジネス言語として英語
   も広く通用する。
宗教:イスラム教92%
    スンナ派(国教。中でもワッハーブ派が支配的)75~80%
    シーア派12~17%
   ヒンドゥー教5%
   キリスト教3%
   ※サウジアラビア政府の公式見解に依れば、同国の国籍を持
    つ者は全てスンナ派イスラム教徒とされ、シーア派信仰は
    異端思想として弾圧の対象になっている。だが実際には、
    東部を中心に一定のシーア派人口が存在するため、統計に
    はそれを反映させている。

[政治・軍事]
建国:1902年1月13日(サウード家がネジド首長国の成立を宣言)
   1921年11月2日(ネジドがジャバル・シャンマル首長国を併合)
   1926年1月8日(ネジドがヒジャーズ王国を征服)
   1927年1月29日(ネジドとヒジャーズが同君連合国を結成)
   1932年9月23日(両国が正式に合併。サウジアラビア王国成立)
国連加盟:1945年10月24日(原加盟国)
政治体制:絶対君主制、神権国家
元首:国王
   サウード家による世襲制、原則として終身制。
政府:閣僚評議会(内閣に相当)
   閣僚評議会議長(首相)は国王が兼任。
   他の閣僚は国王が任命。
議会:一院制の諮問評議会
   150議席。国王による任命制。任期4年。
   (単独での立法権は無く、国王への法案提出権のみ持つ)
政党制:無党制(政党禁止)
国政選挙権:無し
兵役制度:志願制
国防費:613億5800万米ドル
軍組織:王立サウジアラビア軍 (国防省の管轄)
     陸軍7万5000人
     海軍1万4000人 (海兵隊3000人を含む)
     空軍2万人
     防空軍1万6000人 (戦略ロケット軍2500人を含む)
    国家警備隊 (国家警備省の管轄)
     国家警備隊10万人

[経済・エネルギー]
中央銀行:サウジアラビア通貨庁
通貨:サウジ・リヤル (riyal, SAR)
国内総生産(GDP):6464億3800万米ドル
1人当たりGDP:2万29米ドル
GDP構成比:農林水産業2.6%
      鉱工業44.2%
      サービス業53.2%
労働人口:1234万人(うち80%近くが外国人労働者)
失業率:5.6%
輸出額:1836億米ドル
輸出品:原油が約半数、他に精製石油、有機化合物、天然ガス、アルミ製品
輸出先:中国14%、日本11%、インド11%、米国10%、韓国9%
輸入額:1278億米ドル
輸入品:機械類、自動車、航空機、鉄鋼、医薬品、穀物、畜産品、金、衣類
輸入元:中国16%、米国15%、ドイツ6%、UAE5%、日本4%
発電量:3180億kWh
    (火力99%以上、再生可能エネルギー1%未満)
電力消費量:2928億kWh (1人当たり1万249kWh)
電力輸出量:0kWh
電力輸入量:0kWh

[通信・その他]
固定電話回線数:363万7000回線
携帯電話回線数:4793万2000回線
国別電話番号:966
ccTLD:.sa
インターネット利用者数:約2081万人
車両通行:右側通行
平均寿命:75.6歳 (男性73.4歳、女性77.7歳)

[日本との関係]
国交樹立:1955年6月7日
相手公館:大使館 (東京)
駐日相手国人数:791人 (永住者7人)
相手輸出額:196億5000万米ドル
相手輸出品:原油が9割、他に精製石油、天然ガス、有機化合物、アルミ品
日本公館:大使館 (リヤド)
     総領事館 (ジェッダ)
在留日本人数:1322人 (永住者57人)
日本輸出額:50億3000万米ドル
日本輸出品:自動車と部品、機械類、鉄鋼、ゴム品、化学薬品、化学繊維
現行条約:1975年 経済技術協力協定
     2009年 航空協定
     2011年 租税条約
     2013年 投資協定 (発効は2017年)

(注1)
信仰告白(شهادة‎, シャハーダ)とは、アラビア語でلا إله إلا الله محمد رسول الله (ラー・イラーハ・イラッラー・ムハンマド・ラスールッラー)と書く、イスラム教の聖句を指す。「アッラーの他に神は無く、ムハンマドはアッラーの使徒である」を意味する。転じて、イスラムの唯一神たるアッラーだけを神として認め、他のいかなる神も廃することに賛同する、と明言する行為のことも指す。

この言葉を他のイスラム教徒や権威あるイスラム指導者が認める場で発した瞬間から、その人物はイスラム教徒として受け入れられ、イスラム共同体の構成員になるという(ただしシャハーダの口述はアラビア語で発した場合に限られる)。


《国歌「国王の永からんことを」》
制定:1950年 (1984年歌詞改定)
作曲:アブドルラーマン・アル=ハティーブ
作詞:イブラヒム・ハファジ

急げ! 栄光と高貴に向かって。
天の創造主を称えよ!
緑の旗を掲げよ、神のご威光を行き渡らせよ。
繰り返せ。アッラーは偉大なり、と。
おお、我が祖国よ! 我が国よ。
ムスリム(イスラム教徒)の誇りたらんことを。
国王、旗、祖国の永からんことを。

《国名の由来》
「サウードのアラビア」を意味する。サウードは王家の名前であり、アラビア語で「星の一族」の意味。アラビアは古代セム系言語(後のアラビア語の源となった諸言語)で「砂漠」や「日没」を表す。王家の名前を国名に採り入れているのは世界でも珍しく、サウジアラビアの他にはリヒテンシュタインのみである。

英語では通常Saudi Arabia(サウディ・アレイビア)と表記されるが、オリンピックにおける3コードなど一部ではKSAと表記される場合もある。これはKingdom of Saudi Arabia(サウジアラビア王国)の略である。

旧国名
1902-
1921
 ネジド=ハッサ首長国
(ア)إمارة نجد والأحساء
(英)Emirate of Nejd and Hasa
1921-
1927
 ネジド・スルタン国
(ア)سلطنة نجد
(英)Sultanate of Nejd
1927-
1932
 ヒジャーズ=ネジド王国
(ア)مملكة الحجاز ونجد
(英)Kingdom of Hejaz and Nejd

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プロフィール

嫁ドリル

Author:嫁ドリル
国旗と酒をこよなく愛する関西女。
カイロ、ドバイ、カルガリー駐在員を経て、現在は関東で働きながら旦那と2女1男の5人暮らし中。

国旗に関しては、まずは基礎知識カテゴリを熟読して下さい。

ツイッターやってます。基本的に更新情報はここでつぶやいてます。

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