エジプト

エジプト
مصر (ミスール) (アラビア語)
Egypt (イージェプト) (英語)

Flag_of_Egypt.png

エジプトはアフリカ大陸北東部と、西アジアの一部であるシナイ半島を国土とする国です。世界最長の大河ナイル川の下流域及びその河口を抱えることから、国土のほとんどが砂漠にもかかわらず、古くから農耕文明が栄え、紀元前30世紀頃にはファラオ(王)を中心とする多くの古代王朝が成立しました。これらが残したピラミッドやスフィンクスに代表される巨大遺跡は、現在も数多くの外国人観光客を惹きつけています。また、アジアとアフリカ、そして地中海世界の接点という地理的条件により他の文明との交流が盛んに行われ、豊かな文化を誇ったといいます。しかしそれゆえに幾多の民族がこの地の支配をもくろみ、ペルシアやギリシャ、ローマの支配を経験。7世紀にはアラブ人が進出し、血筋、言語、文化など様々な面でアラブ=イスラム化が進みました。今ではアラブ圏の一部として地域内で大きな存在感を示しており、公式国名もエジプト・アラブ共和国とされています。

また、現在のエジプトはアラブ圏最大の人口大国であり、域内有数の軍事力を抱え、更に対イスラエル・パレスチナ関係を中心に国際外交の拠点にもなっていることから、自らを「アラブの盟主」と呼んでいます。ナイル川流域以外は荒涼とした砂漠地帯であるにも関わらず、8000万人以上の人口を養う必要があるため、経済成長の速度は緩やかにならざるを得ませんが、石油などエネルギー資源頼みの国が多い同地域にあって、石油以外にもナイル川流域で栽培される農水産品、最大の外貨獲得源となっている観光業、そして地中海とインド洋を結ぶ交通の要衝スエズ運河の運営といった、比較的多角化された経済構造を持っており、成長に向けた潜在的な国力は高いと言えましょう。ただ、1981年からほぼ30年間にわたって続いたホスニー・ムバラク大統領による長期独裁政権が民衆蜂起により崩壊してからは、その後実施された民主的選挙で発足したイスラム主義勢力を母体とする新政権と、それに反発する世俗派軍部の対立による国政停滞、そして2013年の軍事クーデターといった度重なる政情不安により、外国人観光客が激減。年間100億ドル以上を稼ぎ出していた最大の外貨獲得源である観光業が大打撃を受けたため、2014年に軍の強い影響力のもとで発足した現政権(形式的には民政ですが、実際には旧軍事政権の指導者がそのまま新大統領に就任)は、ムバラク時代のような強い統制によって再び国内の引き締め・安定化を図りつつ、立ち遅れてしまった経済の復興を目指しています。

エジプトの現国旗は1984年に制定されたもので、汎アラブ色と呼ばれる赤、白、黒、緑の四色のうち、緑を除く三色が使われています。これはアラブ世界の連帯を表す色とされており、20世紀半ばから後半にかけて地域内の一大ムーヴメントとなったアラブ民族主義運動の影響を受けたものです。また、それぞれの配色にも意味があり、赤は民族主義者による革命と国民の犠牲、白はエジプトの明るい未来、黒は敵の敗北とかつてイギリスに植民地化されていた頃の暗黒の時代を表します。また、中央の国章はサラディンの鷲と呼ばれるもので、エジプトのみならずアラブ人全体の伝統的なシンボルです。鷹の下にあるリボンには、アラビア語で「エジプト・アラブ共和国」と書かれています。

縦横比:2対3

【旧国旗】
Egypt_1882-1922,
16世紀よりエジプトはオスマン帝国の一州となっていましたが、19世紀初頭に州総督ムハンマド・アリーが帝国の弱体化を機に半独立状態を作り出すことに成功しました。それに伴い諸外国から国家として扱われるようになり、ムハンマド・アリー朝のもとで富国強兵と近代化策が進められましたが、その一環として行われたスエズ運河の建設による財政支出は、まだ産業が確立されておらず税収の乏しかったエジプトが耐え切れるものではなく、支援の見返りとしてイギリスに運河の実権を奪われます。また国家自身もその強い影響下に置かれ、以後は運河の所有権と主権の回復がエジプト人にとって重要な政治課題となります。

その後も名目的とはいえエジプトの宗主国であったオスマン帝国と、実質的な支配国イギリスが第一次大戦で開戦したのに伴い、1914年にイギリスは遂にエジプトを保護国化し、辛うじて保たれていた帝国との繋がりを断ちました。戦後の1922年にムハンマド・アリー朝エジプト王国として改めて独立しましたが、イギリスの間接支配は終わらず、運河も返還されませんでした。

上記の国旗はそんな苦難の時代のエジプト国旗であり、1882年に制定され、1922年の王国成立まで用いられました。宗主国であるオスマン帝国国旗にも使われた赤に、イスラムの象徴である月と星を3セットずつ配置したこのデザインには、エジプトがアジア、アフリカ、地中海の全域に勢力を持つ大国になるようにという願いが込められています。そのために進めた様々な政策が、後に王朝自身を苦しめることになるとは、制定当初は思いもしなかったでしょうね。

Egypt (1923-1952)
1922年のエジプト王国成立に伴い制定された国旗です。月と星のデザインと緑の配色はイスラム教の伝統に根ざしたものであり、3つの星は当時のエジプト王国を構成していた3地方(エジプト、ヌビア、スーダン)および国内の主要3宗教(イスラム、キリスト、ユダヤ)を象徴します。1952年廃止。

この頃は依然としてイギリスが親英的な王室・政府を介して間接的に支配権を及ぼしており、この状態に反発する軍部の中には密かにクーデターを計画する集団が現れました。彼らは自由将校団と呼ばれ、後にエジプトをアラブ世界のリーダー的存在に成長させた若き軍人ガマル・アブドゥン・ナセルも、この団で地位を高めていました。

Egypt_1952-1958.jpg
1952年、王室と政府が進める親英政策と国家の従属状態に反発した自由将校団によりクーデターが起こされました。翌1953年には王政廃止とエジプト共和国の樹立が宣言され、以後エジプトはナセルを中心とするアラブ民族主義者の統治下に置かれます。

1956年にはナセルによりスエズ運河の国有化が断行され、イギリスはフランスやイスラエルと組んでエジプト侵攻を計画しましたが、2つの超大国(アメリカとソ連)が英仏イの動きを「帝国主義的」として非難したため、断念されました。この一連の動きをスエズ危機といいますが、長年の悲願であった運河奪還によりナセルとエジプトの国際的地位は大いに高まり、この頃からエジプトをアラブの盟主とする論調も大きくなっていったといいます。

王政時代の国旗を廃止して制定された新共和国の国旗には、赤、白、黒を用いたアラブ民族主義的なデザインが用いられています。配色の意味は前述の通りですが、中央の紋章は現在のサラディンの鷲ではなくクライシュの鷹と呼ばれるものとなっています。サラディンの鷲と同様、イスラム教の預言者ムハンマドの出身氏族とされるクライシュ族を象徴するアラブ人のシンボルであり、その中には王国時代の国旗の名残が辛うじて残されています。1958年廃止。

United_Arab_Republic.png
ナセル率いるエジプト共和国はアラブ民族主義を国是としていましたが、そもそもアラブ民族主義とは何かというと、アラブ諸国の統一を目指す運動です。20世紀前半にヨーロッパ列強により引かれた既存の国境線を廃止し、アラブ人が主流な全ての地域を1つの巨大国家としてまとめ、主敵であるイスラエルや欧米の大国と渡り合おうという思想を指し、当時のアラブ圏では非常に強い影響力を持っていました。

当時、エジプトの他にはシリアがアラブ民族主義の急先鋒となっており、両国はアラブ統一の手本となるべく1958年に統合し、新国家アラブ連合共和国(UAR)を樹立しました。他国にもこの潮流に乗るよう呼びかける一方、連合の主導権は人口が多くナセルというカリスマを持つエジプトが握ったため、シリアは反発。両者の対立は解消されず、他国の糾合どころか国内の統合も達成できないまま、連合結成からわずか3年後の1961年にシリアがUARから脱退し、実質的に連合国家は消滅しました。しかしエジプトはその後も1971年(ナセル死去の翌年)に現在のエジプト・アラブ共和国に改称するまで、単独でUARを公式国名としています。

1958年のUAR樹立に伴い制定された国旗は、前国旗の中央部をクライシュの鷹から、エジプトとシリアを表す2つの星に変更したもので、これをイスラム教の聖なる色である緑で彩色しています。1961年にUARが実質的に崩壊した後も単独でUARを名乗り続けたエジプトは、1972年まで国旗も変更しませんでした。

アラブ共和国連邦
1972年、今度はカッダーフィ政権下のリビアの提案によりエジプト、リビア、シリアがアラブ共和国連邦(FAR)を結成しました。FARは先のUARのような単一の主権国家ではなく、より緩やかな結び付きを持った共同体として樹立されたものであり、それぞれの構成国は主権国家としての地位を維持していました。その実態は連邦というより、国際機関や対イスラエル向けの統一戦線に近いものだったといいます。

しかしFARもまた、アラブ民族主義運動の一環として造られたもののため、将来的にアラブ統一が実現した暁には主権国家に昇格する予定でした。またそのシンボルとして、FARを構成する3ヶ国は上記の共通国旗を採用しています。中央に置かれているのは先々代の国旗にもあったクライシュの鷹で、下部にはアラビア語でアラブ共和国連邦と書かれています。

しかし各国に独自外交を認めた結果、ナセル亡き後のエジプトを率いたアンワル・サダトは親米路線へと移行。米国の仲介で仇敵であるはずのイスラエルとも交渉を重ね、1977年にはサダト自身が、その帰属をめぐって国際問題になっているエルサレムを訪問しました。これを「エルサレムはイスラエル領」というイスラエル政府の見解を承認するものと見なしたリビアとシリアは猛反発し、同年のうちにFARは解体。カダフィ率いるリビアは一夜にして特徴的な緑一色の国旗に、シリアも1980年にはUAR時代の国旗へと戻ってしまいました。その後、エジプトは1979年から10年間アラブ連盟の加盟資格を剥奪され、サダトは1981年に暗殺される(後継は前述のムバラク)など、アラブ世界から孤立しながら1984年までこの旗を使い続けました。


エジプト・アラブ共和国
جمهورية مصر العربية (ジュムフーリーヤ・ミスール・アル=アラビーヤ)
Arab Republic of Egypt (アラブ・リパブリック・オブ・イージェプト)

Map_of_Egypt.gif

統計データは原則として2015年時点のもの。

[地理]
位置:アフリカ (シナイ半島はアジア)
面積:約100.1万km² (日本の約2.6倍)
人口:約8471万人
首都・最大都市:カイロ (ア:القاهرة 英:Cairo 注1)
都市人口率:43.1%
主要民族:アラブ系エジプト人(ベドウィンを含む)94%
       少数のヌビア人、ベジャ人、ベルベル人など。
主要言語:アラビア語が公用語で、国民の大半が母語としているほか、
       各民族をまたぐ共通語としても幅広く用いられている。他に
       南方ではヌビア系諸語、東部ではベジャ語などの少数民族
       言語。外国語では英語が最も広く使われており、3割半ほど
       の国民が第二言語として習得している。
主要宗教:イスラム教90%
        スンナ派(国教)89%以上
        極少数のアフマディーヤ教団、シーア派。
       キリスト教9%
        コプト教会8%以上
        極少数の正教会、カトリック、マロン派など。
       他にユダヤ教、バハーイー教など。

[政治・軍事]
独立:1922年2月28日
国連加盟:1945年10月24日
政治体制:共和制、半大統領制
元首:大統領
    直接選挙制。任期4年。3選禁止。
政府:内閣
    首相と閣僚は議会が選出し、大統領が任命。
議会:一院制の代議院(単に国会とも)
    596議席。直接選挙枠は568議席で、うち448議席は小選挙区
    から、120議席は女性、青年層、キリスト教徒、労働者の代表が
    比例代表制に基づき選出される。残る28議席は大統領による任
    命枠。任期5年。
政党制:多党制
国政選挙権:18歳以上の国民全て (義務投票制)
兵役制度:徴兵制
国防費:78億5000万米ドル
軍組織:エジプト軍
     陸軍31万人 (共和国防衛隊2万4000人を含む)
     海軍1万9000人
     空軍3万人
     防空軍8万人

[経済・通信・その他]
中央銀行:エジプト中央銀行
通貨:エジプト・ポンド (Pound, EGP)
国内総生産(GDP):3307億7900万米ドル
1人当たりGDP:3615米ドル
GDP構成比:農林水産業14.3%
        鉱工業39.6%
        サービス業46.1%
労働人口:2887万人
失業率:12.8%
輸出額:190億3000万米ドル
輸出品:原油、綿花、衣類、野菜、果物、有機化合物、精製石油、金、乳製品
輸出先:サウジアラビア9%、イタリア8%、トルコ6%、UAE5%、米国5%
輸入額:571億7000万米ドル
輸入品:機械類、精製石油、鉄鋼、穀物、自動車、医薬品、肉類、木材、紙類
輸入元:中国13%、ドイツ8%、米国6%、トルコ5%、ロシア4%
固定電話回線数:623万5000回線
携帯電話回線数:9401万6000回線
国別電話番号:20
ccTLD:.eg
インターネット利用者数:約3084万人
車両通行:右側通行
平均寿命:72.8歳 (男性71.4歳、女性74.2歳)

[日本との関係]
国交樹立:1922年4月7日
相手公館:大使館 (東京)
駐日相手国人数:1987人 (永住者214人、特別永住者2人)
相手輸出額:1億7600万米ドル
相手輸出品:原油、衣類、絨毯、綿花、ナッツ類と食用油、野菜
日本公館:大使館 (カイロ)
在留日本人数:997人 (永住者232人)
日本輸出額:15億1000万米ドル
日本輸出品:自動車と部品、機械類、鉄鋼、ゴム製品、魚介類、化学薬品
現行条約:1957年 文化協定
       1963年 航空協定
       1969年 租税条約
       1978年 投資協定
       1984年 技術協力協定
       1995年 青年海外協力隊派遣取極
       2009年 エジプト日本科学技術大学(E-JUST)設立協定
       2010年 科学技術協力協定

(注1)
従来の首都カイロへの人口流入による過密化、そして都市設備の老朽化などの理由により、カイロの首都としての機能が麻痺しつつあるとして、カイロの東、スエズとの中間地点に新たな行政都市を建設中。2022年までに政府機関を当該地に移転し、正式に遷都する予定。なお既存の都市の流用ではなく、一からの都市建設となるため、都市名は完成まで未定。


《国歌「我が祖国、我が祖国、我が祖国」》
制定:1979年 (1952年より事実上の国歌。1979年に法制化)
作曲:サイード・ダルウィーシュ
作詞:モハメド・ユーニス・アル=カディ

我が祖国、我が祖国、我が祖国。
我が愛と心はそなたのために。
我が祖国、我が祖国、我が祖国。
我が愛と心はそなたのために。

エジプト! おお、全ての地の母よ。
汝は我が希望にして活力、
そして全ての民の上に君臨する者なり。
そなたの持つナイル川は、数えきれない恩恵を与えてくれる。

我が祖国、我が祖国、我が祖国。
我が愛と心はそなたのために。
我が祖国、我が祖国、我が祖国。
我が愛と心はそなたのために。

《国名の由来》
アラビア語ではمصر(ミスール)と呼ばれる。よくアラビア語で「軍営都市」を表す単語だと紹介されるが、詳しくは不明。一説には、フスタート(現カイロ近郊)が軍営都市、つまりミスールとして建設され、それがやがてこの地方全体を指す言葉になったという。なお、ミスールという発音は標準アラビア語のものであり、エジプト方言ではマスールとなる。

英語名は、エジプト古王国時代の都メンフィスの旧称ヘトカアプタハ(創造神プタハの地)が古代ギリシャ語に転訛してΑἴγυπτος(アイギュプトス。ギリシャ神話でエジプト王の名として紹介された)となり、更にラテン語でAegyptus(アエギプトゥス)、英語でEgypt(イージェプト)と変化していったとされる。

旧国名
1914-
1922
 エジプト・スルタン国 (イギリスの保護国)
(ア)السلطنة المصرية (アッ=サルタナット・アル=ミスーリーヤ)
(英)Sultanate of Egypt (スルタネイト・オブ・イージェプト)
1922-
1953
 エジプト王国
(ア)المملكة المصرية (アル=マムラカー・アル=ミスーリーヤ)
(英)Kingdom of Egypt (キングダム・オブ・イージェプト)
1953-
1958
 エジプト共和国
(ア)الجمهورية المصرية (アル=ジュムフーリーヤ・アル=ミスーリーヤ)
(英)Republic of Egypt (リパブリック・オブ・イージェプト)
1958-
1971
 アラブ連合共和国
(ア)الجمهورية العربية المتحدة
  (アル=ジュムフーリーヤ・アル=アラビーヤ・アル=ムッタヒーダ)

(英)United Arab Republic (ユナイテッド・アラブ・リパブリック)

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プロフィール

嫁ドリル

Author:嫁ドリル
国旗と酒をこよなく愛する関西女。
カイロ、ドバイ、カルガリー駐在員を経て、現在は関東で働きながら旦那と1女1男の4人暮らし中。

国旗に関しては、まずは基礎知識カテゴリを熟読して下さい。

ツイッターやってます。基本的に更新情報はここでつぶやいてます。

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