ルーマニア

ルーマニア
România (ロムニア) (ルーマニア語)
Romania (ロゥメィニア) (英語)

Flag_of_Romania.png

ルーマニアはヨーロッパ南東部、バルカン半島に位置する国です。その国土はおおむね山地、丘陵、平地が1/3ずつを占め、西部から東部にかけて緩やかに流れるドナウ川が周辺国との国境を成し、東に位置する黒海に注がれます。その黒海に面した東部のデルタ地帯を中核に、極めて肥沃な土壌を持つこの農業国は、古代から様々な民族が定住し、支配権をめぐって争った地でもあり、紀元前1000年頃にはトラキア系ダキイ人の部族連合が初期国家(民族名から後にダキアと呼ばれた)を形成したものの、紀元後100年から106年まで二度にわたったローマ帝国との戦争の結果、ダキアはローマの属州となりました。現在のルーマニア人は、この頃ダキアに渡ったローマ人と、支配の中でローマ文化を受け入れた旧ダキア人の混成民族とされ、国名もずばり「ローマ人の国」を意味し、国歌にもダキア戦争当時のローマ皇帝トラヤヌスの名が登場します。その後は北東から進出したスラヴ人の進出を受け、10世紀頃までにバルカン半島の大半はスラヴ化しましたが、この地の人々はヨーロッパ東部におけるローマの血統の継承者を名乗り、頑なに独自の伝統を守り続けました。このことはルーマニア人にとって大きな誇りとなり、後の統一国家形成の原動力となっていきます。

諸勢力の混在地となっていたこの地も、中世に入ると南部のワラキア、北東部のモルダヴィア、北西部のトランシルヴァニアという3つの公国にまとまりましたが、11世紀にトランシルヴァニアが西方の大国ハンガリーの支配下に入り、続いてワラキアとモルダヴィアも南方から迫るオスマン帝国の力に屈し、ワラキア公ヴラド・ツェペシュ(ヴラド3世)率いる抵抗戦争もあったものの、15世紀には属国化しました。ルーマニア人の独立運動は19世紀に入ると本格化し、度重なる対外戦争でオスマン帝国が疲弊すると、これを好機と見たワラキアとモルダヴィアが1859年に共通の公を戴く同君連合を結成。1877年に勃発したオスマン帝国とロシアとの戦争(露土戦争)ではロシア側に付いて戦況を有利に進め、同年5月には遂に独立を宣言し、オスマン帝国の支配から脱出しました。その後は1881年にルーマニア王国と改称し、第一次大戦で敗戦国となったハンガリーからトランシルヴァニアを奪取、更にはモルダヴィア周辺のルーマニア人居住地域、すなわちベッサラビア、ブコヴィナなどの地域も併合したことで、ルーマニア史上最大の版図を獲得しましたが、第二次大戦では枢軸国側についたためソ連の侵攻に合い、ベッサラビアを奪われました(1991年にその一部がモルドバとして独立)。また領土の割譲のみならず、国家体制自体も、大戦の敗戦国として戦後ソ連の占領下に置かれたことで大きく変わり、既に1944年には有名無実となっていた王政が1947年には正式に廃止され、新たに社会主義政権が樹立されることとなりました。その後の歴史は下記の旧国旗の欄に譲りますが、かつてヨーロッパ東部の主要国として名を馳せた歴史は、ルーマニア人の中で「気高きローマの末裔」という意識と結びつき、スラヴ圏の中にポツンと浮かぶローマの息吹を現代に伝え続けています。

ルーマニアの国旗は1848年、まだオスマン帝国の支配下だった頃に抵抗運動のシンボルとして掲げられたものです。当時から青・黄・赤の三色旗であることに変わりはなかったものの、その向きは縦だったり横だったり、色の配置がバラバラだったり不統一で、ワラキアとモルダヴィアが同君連合を組んだ頃には上から赤・黄・青の縦三色旗が主流だったともいいます。本格的にこの旗が、来るべきルーマニア国家の旗と目されるようになったのは1866年、オスマン帝国の法制とは別にルーマニア独自の自治憲法を制定した頃からで、1877年の独立に伴い公式に国旗化されました。下記の社会主義政権時代に紋章が配されることはあったものの、それ以外の時代は一貫して不変で、現在まで用いられ続けています。国旗の配色はもともと青がモルダヴィア、黄がオルテニア(小ワラキア。ワラキア西部)、赤がムンテニア(大ワラキア。ワラキア東部)を象徴し、王国結成の経緯を表していましたが、王政が崩壊した現在では青はルーマニアの美しい空、黄は豊かな土壌からとれる穀物、赤は独立のために流された血と解釈し直されています。意匠・配色共にチャドの国旗とほぼ同じであり、チャド国旗のほうがわずかに青が濃いものの、見分けることはほぼ不可能と言えましょう。

縦横比:2対3

【旧国旗】
Flag_of_Romania_(1948-1952).png   Flag_of_Romania_(1952-1965).png
第二次大戦後、王政廃止と共和制移行が成されたルーマニアでは、ソ連の後ろ盾で政権を獲得したルーマニア労働党による新たな社会主義政権が樹立され、国名もルーマニア人民共和国と改められました。それに伴い国旗にも変更が加えられていますが、青、黄、赤の基本デザインは変わらず、中央部に国章が配される程度の変更でした。この国章はルーマニアの豊かな自然を表す森と山、労働者の象徴である工場に必須の存在である送電線を、農民を示す小麦の穂で囲んだもので、下部には国旗の三色で色づけされたリボンが配され、その中にルーマニア人民共和国(Republica Populară Romînă)の略称であるRPRという文字か描かれています。他の社会主義国と類似性が高く、ソ連の影響下にあることが如実に表れた国旗と言えますね。1948年の制定当初、すなわち左の旗には無かった社会主義革命の象徴たる赤い星も、4年後の1952年制定の国章(右の旗)には付け加えられており、より社会主義色の強いデザインとなっています。

この頃のルーマニアは対外政策、国内経済共にソ連一辺倒で、他の東欧社会主義圏と変わらないソ連の衛星国の1つに過ぎない国と見なされていました。しかしこの状況も、1965年に登場した新しい指導者のもとで大きく変わることになります。その人物の名はニコラエ・チャウシェスクといいます。

Flag_of_Romania_(1965-1989).png
1965年、それまで党を率いてきたゲオルゲ・ゲオルギュ=デジ書記長が死去すると、党内で後継者をめぐる激しい対立が発生しましたが、ゲオルギュ=デジの古くからの友人として、また優秀なテクノクラートとして党内での地盤を固めていたチャウシェスクが書記長に選出されることで、各派は妥協に至りました。しかしこの人物、実は権力基盤の強化に余念の無いしたたかな性格で、書記長となった1965年には党名をルーマニア共産党に、国名をルーマニア社会主義共和国に改称することで、それまでとは違う自らの時代となったことを公に示したのを皮切りに、着々と党・国家を私物化していきます。1974年にそれまで集団的指導体制の長に過ぎなかった国家評議会議長という元首称号を、単一の元首である大統領に改めてからは、彼の独断専行は一層強みを増し、かつての国王のような振る舞いも見られるようになりました。その政策も、硬直した計画経済により物資が不足し、豊かな土壌を持ちながら作物を無理矢理輸出に回した結果、国民の貧困や飢餓を招いた一方、自らは首都ブカレストに「国民の館」と称される豪奢な大統領宮殿を設営して権威の象徴にしようともくろむなど、自らの利益に終始した恣意的なもので、国民の間には反発が強まりました。しかし国民の動きも、セクリタテアと呼ばれる秘密警察によって監視され、反対派には容赦ない弾圧が加えられたため、チャウシェスク政権は大規模な反発を受けることのないまま、国家を我が物としていったのです。

ただ、この頃の外交政策は西側の資本主義陣営への接近に特徴付けられるように、ソ連からの離反を念頭に置いた独自路線が採用されたため、西側諸国は一般にルーマニアに対して好意的でした。ソ連もルーマニアの勢力圏離脱を「形だけのもの」として放置し、旧チェコスロバキアのプラハの春のような物理的な攻撃を行わなかったため、チャウシェスクはますます自らの政権運営に自信を持つことになります。実のところ、ルーマニアはヨーロッパ東部では数少ない産油国であり、その輸出外貨で自立性を維持していたに過ぎないのですが、国民にそれが知らされるはずもなく、チャウシェスクの国内視察の時だけ臨時に各店舗に物資が補給されるなど、豊かさを「演じる」ことも国民の義務とされました。このような政権がいつまでも続くはずもなく、1980年代後半に東欧社会主義圏で相次いで民主化を求める運動が発生すると、ルーマニアでも1989年のチャウシェスクの演説中に民衆暴動が発生。国軍も民衆側に付き、チャウシェスクは夫人と共に命からがらブカレストから脱出しました。しかし、この光景がテレビで生中継されていたため、この大統領の姿は全国民に生々しく伝わることとなり、政権は求心力を喪失。同年12月25日のクリスマス、チャウシェスク夫妻は軍に捕えられ、略式裁判の後、即時銃殺されることで、24年にもわたって続いたチャウシェスク政権、更には大戦後から権力保持装置として機能してきたルーマニア共産党は崩壊し、暫定政権を経て、翌1990年にようやく民主化を達成したのです。

チャウシェスクは後継者となった後、国名・党名に並んで国旗にも修正を加えました。といっても、中央の国章の一部を変更しただけで、おおむね以前の意匠と一致していましたが。唯一の修正点は、それまでリボンに書かれていたRPRという文字を、ルーマニア社会主義共和国という正式国名を表すRepublica Socialist Româniaに変更したことで、1989年の民主化まで用いられました。なお、1989年の暴動の際には中央の国章をくりぬいた旗が民主革命のシンボルとして掲げられたとのこと。国名も「共和国」という言葉そのものが、社会主義時代に国家を表す代名詞として用いられた経緯から、独裁の匂いを感じる市民が多いという理由で、修飾語の無い「ルーマニア」になりましたしね(ただし政体は現在も共和制です)。


ルーマニア
România
Romania


Map_of_Romania.gif

統計データは原則として2015年時点のもの。

[地理]
位置:ヨーロッパ
面積:約23.8万km² (本州より少し大きい)
人口:約2158万人
都市人口率:54.6%
首都・最大都市:ブカレスト (ル:București 英:Bucharest)
主要民族:ルーマニア人89%
       マジャール(ハンガリー)人6%
       ロマ人3%
       少数のウクライナ人、ドイツ人、トルコ人、ロシア人など。
主要言語:ルーマニア語が公用語。少数民族の言語としてマジャール
       (ハンガリー)語など。外国語では同じラテン国家の先進国
       という憧れから、フランス語の習得者が多いが、近年はビジ
       ネス上の必要性から英語の学習者も増加傾向にある。
主要宗教:キリスト教93%
        正教会81%
        ローマ・カトリック教会4%
        改革派3%
        ペンテコステ派2%
        少数のギリシャ・カトリック教会、バプテスト教会など。
       無宗教または信仰を明示しない6%
       極少数のユダヤ教、イスラム教など。

[政治・軍事]
独立:1877年5月9日(独立宣言)、1878年7月13日(独立承認)
国連加盟:1955年12月14日
政治体制:共和制、半大統領制
元首:大統領
    直接選挙制、任期5年、3選禁止。
政府:閣僚評議会(内閣に相当)
    首相は議会の承認を得た上で大統領が任命。
    他の閣僚は首相が任命。
議会:二院制の国会
    ●元老院(上院)
     136議席。直接選挙制(比例代表制)。任期4年。
    ●代議院(下院)
     329議席。直接選挙制(比例代表制)。任期4年。
    ※両院とも選挙区割りを除いて同一制度により選出されるため、
     合併の上で一院制議会に移行することも検討されている。
政党制:多党制
国政選挙権:18歳以上の国民全て
兵役制度:志願制
国防費:29億8000万米ドル
軍組織:陸軍4万3000人
     海軍6900人
     空軍8400人

[経済・通信・その他]
中央銀行:ルーマニア国立銀行
通貨:ルーマニア・レウ (leu, RON。複数形はレイ lei)
国内総生産(GDP):1779億5400万米ドル
1人当たりGDP:8981米ドル
GDP構成比:農林水産業3.3%
        鉱工業35.4%
        サービス業61.3%
労働人口:913万人
失業率:6.7%
輸出額:545億2000万米ドル
輸出品:機械類、自動車部品、衣類、鉄鋼、穀物、精製石油、ゴム製品、家具
輸出先:ドイツ20%、イタリア13%、フランス7%、ハンガリー5%、英国4%
輸入額:631億2000万米ドル
輸入品:機械類、化学薬品、鉄鋼、精錬銅、自動車、原油、繊維原料、肉類
輸入元:ドイツ20%、イタリア11%、ハンガリー8%、フランス6%、ポーランド5%
固定電話回線数:427万1000回線
携帯電話回線数:2311万9000回線
国別電話番号:40
ccTLD:.ro
インターネット利用者数:約1124万人
車両通行:右側通行
平均寿命:75.3歳 (男性71.7歳、女78.8歳)

[日本との関係]
国交樹立:1902年6月18日
相手公館:大使館 (東京)
駐日相手国人数:2791人 (永住者1213人、特別永住者2人)
相手輸出額:5億1000万米ドル
相手輸出品:衣類、木材、大麦、機械部品、皮革、履物、家具、タバコ製品
日本公館:大使館 (ブカレスト)
在留日本人数:416人 (永住者8人)
日本輸出額:3億8300万米ドル
日本輸出品:機械類、自動車と部品、鉄鋼、ゴム製品、プラスチック製品、石材
現行条約:1960年 貿易支払協定
       1969年 通商航海条約
       1975年 文化協定
            科学技術協力取極
       1977年 租税条約
       1995年 青年海外協力隊派遣取極


《国歌:目覚めよ、ルーマニア人よ!》
作曲:不詳 (ゲオルゲ・ウチェネスク説が有力)
作詞:アンドレイ・ムレシャヌ
制定:1990年
備考:1991-1994年の間はモルドバの国歌でもあった。

目覚めよ、ルーマニア人よ! 死の如き眠りから。
残虐なる暴君に貶められたそなたは、
今まさに、新たなる運命をその身に刻むのだ。
たとえ無慈悲なる敵をくじかねばならぬとしても。

今こそ世界に知らしめん、
我らに流れるローマの血脈を。
我らが胸に刻まれるは、誇り高きその名。
勝者、トラヤヌスの名なり!

《国名の由来》
ルーマニア語ではRomânia(ロムニア)と表記される。前述のように、「ローマ人の国」を意味するラテン語Romania(ロマニア)から。ルーマニアはスラヴ系国家に囲まれた東欧の中で唯一のラテン・ローマ系国家を自負しており、自らを古代ローマ帝国の血統を受け継ぐ民族と見なしている。

英語での発音はロゥメィニアに近い。古くはRoumaniaやRumaniaとも書かれた。

旧国名
1881-
1947
 ルーマニア王国
(ル)Regatul României (レガトゥル・ロムニエイ)
(英)Kingdom of Romania (キングダム・オブ・ロゥメィニア)
1947-
1965
 ルーマニア人民共和国
(ル)Republica Populară Romînă
  (レプブリカ・ポプラーラ・ロムィナ)
(英)Romanian People's Republic
  (ロゥメィニアン・ピーポゥズ・リパブリック)
1965-
1989
 ルーマニア社会主義共和国
(ル)Republica Socialistă România
  (レプブリカ・ソチアリスタ・ロムニア)

(英)Socialist Republic of Romania
  (ソーシャリスト・リパブリック・オブ・ロゥメィニア)

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プロフィール

嫁ドリル

Author:嫁ドリル
国旗と酒をこよなく愛する関西女。
カイロ、ドバイ、カルガリー駐在員を経て、現在は関東で働きながら旦那と1女1男の4人暮らし中。

国旗に関しては、まずは基礎知識カテゴリを熟読して下さい。

ツイッターやってます。基本的に更新情報はここでつぶやいてます。

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