イラン

イラン
ایران (イーラーン) (ペルシア語)
Iran (イラーン) (英語)

Flag_of_Iran.png

中東のイランは、西アジアから南アジアを繋ぐ広大な領土を持つ歴史豊かな国です。この地では紀元前550年に建国されたというアケメネス朝ペルシア以来、ペルシア人を中核とする様々な王朝が興亡を繰り返し、中東における地域大国として、西のアラブ圏とも東のインド圏とも異なる独自の豊かな伝統文化(ペルシア文学や固有宗教ゾロアスター教の発生、ペルシア絨毯など)が育まれてきました。7世紀に入ると西からアラブ人が侵攻し、ペルシア人も次第にイスラム文化圏に組み込まれていったものの、ここでもアラブ人の間で主流派であるスンナ派ではなく、敢えて少数派のシーア派に改宗することで、独自性を維持しています。その後はモンゴル帝国の支配や群雄割拠の時代が続き、ペルシア人の勢力は次第に衰退していきましたが、16世紀から17世紀にかけて一時的ではあるものの再びこの地にまとまった政権を築く勢力が勃興し始め、18世紀末期(1794年)に成立したガージャール朝がペルシアの統一王朝として名を馳せました。しかしこのガージャール朝は国に点在する各部族による連合政権の性格が強く、中央政府の権力は脆弱で、この隙を付く形で南からイギリス、北からロシアが勢力圏を拡大し、内政・外交共に混乱を極め、王朝の統治権は徐々に名目的なものとなっていきます。20世紀初頭には英露両国の半植民地と呼べるような状態になりながらも、近代議会の開設や憲法の制定といった改革も試みられましたが、王権の失墜はもはや後戻りできないほど深刻化しており、軍人から政治家へと転身して実権を固めていったレザー・ハーンによって1925年にガージャール朝そのものが廃止されることとなりました。その後、レザー・ハーンはレザー・シャー・パフラヴィーと改名して自ら皇帝に即位し、イラン最後の王朝であるパフラヴィー朝の開祖となっています(パフラヴィー朝時代の詳細は旧国旗の項目を参照のこと)。

パフラヴィー朝は1979年のイスラム革命で崩壊し、現在のイランでは「イラン・イスラム共和国」という国名が表す通り、国教であるイスラム教シーア派の高位法学者(注1)を頂点とする独特な共和制が敷かれています。法律は憲法のほか、イスラム法(シャリーア)に合致するものでなければならず、国家元首は法学者の中から選ばれる最高指導者という職であり、その下に置かれる民選の大統領や国会議員の立候補資格も、法学者による事前の審査で神権政治体制に反しないと認定された者に限られるなど、政治的な自由はかなりの程度制限されています(それでもパフラヴィー朝時代や、アラビア半島の絶対王政諸国よりは自由度は高いようですが)。また帝政時代に西洋諸国がイランの傀儡化や皇帝独裁体制の支援を実行した反動から、外交には根強い反西洋史観が反映されており、西洋諸国が支援するイスラエルに対しては「イスラム圏の脅威」として敵意を隠さず、イラン政府がしばしば発表する強硬な声明や行動は、中東の安定化における重大な懸念材料となっています。一方、経済面では何と言ってもエネルギー産業が有名で、石油の輸出量はロシア、サウジアラビアに次ぐ世界第3位と、国際経済における重要な資源供給国として、存在感を発揮しています。国土が広大で人口も多く、また経済・民生分野より宗教・軍事面を重視する指導部側の放漫財政もあって、石油の富が全地域・全国民に行き渡っているとは言い難い状態ですが、それでもイラン経済は革命直後に勃発したイラン・イラク戦争(1980-1988年)後から大きく成長しており、また核開発問題の妥結により2016年初頭には国際社会による経済制裁も解除され、今では新興経済国の一角と目されるようになっています。

現在のイラン国旗は革命翌年の1980年に制定されたもので、非常に宗教色の強い意匠となっていることで知られます。緑、白、赤はペルシア人の伝統的な民族色ですが、同時に緑はイスラム教の聖なる色であり、白は平和、赤は勇敢さを表します。それぞれの色の境界にはアッラーフ・アクバル(الله أكبر、神は偉大なり)というイスラム教の聖句がペルシア文字クーフィー体で上部に11、下部に11の計22個書かれていますが、これは現在のイスラム神権体制を象徴すると同時に、革命がイラン暦1357年11月22日(西暦換算で1979年2月11日)に達成されたことを記念しています。中央の国章はペルシア文字のアッラー(الله、神)を図案化したものに、力の象徴である剣とイスラムの象徴である三日月を組み合わせたものです。

縦横比:4対7

【旧国旗】
Iranian_Imperial_Flag.png
1925年より用いられたパフラヴィー朝ペルシア帝国の国旗です(1935年にイラン帝国に改称)。ペルシア人の伝統粋な民族色である緑、白、赤の三色旗で、中央の獅子は皇帝の権威の象徴します。制定当初は縦横比が1対3という極端に横長な国旗でしたが、1964年に上記の4対7に変更されました。1979年のイラン・イスラム革命で獅子の紋章が廃され、1980年には現国旗に移行しましたが、今でもイスラム主義体制に反対して国外に亡命した世俗派や旧皇室支持者は現国旗を拒否し、この旗を掲げています。なお、通常は獅子の紋章が入った旗は政府機関で掲げられ、民間では紋章を省いた緑、白、赤の単純三色旗が使用されたようです。

パフラヴィー朝時代のイランは、隣国トルコで成功したような国家の西洋化を推し進めるようになっていましたが、特に1941年に即位した第2代皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィーのもとでは近代的な政策が矢継ぎ早に打ち出され、イランという国家に大きな変革の時期が訪れようとしていました。しかしそれは長い歴史を持つ誇り高きペルシア人としての伝統文化、そしてイスラム圏の一員としての意識を無視した強引な手法によって成された部分も大きく、また国家経済もガージャール朝時代以来続く、外資に牛耳られた非常に不平等な構造が温存されていたため、次第に国民の間に不満が蓄積されていくことになります。そんな中、1951年に首相に就任した民族主義者モハンマド・モサッデクのもとで、イランの富の源泉である石油産業の国有化が進められ、数年で外資から石油を取り戻すことに成功。モサッデクは一躍イラン国民の英雄となりました。しかし、モサッデクは同時にソ連への接近を図ったため、欧米諸国(とりわけ米英)からは先の国有化と相まって「反西洋的な政治家」と見なされるようになり、イラン産の石油を国際市場から締め出すなど、様々な方策を用いてモサッデク政権に圧力を掛け、1953年には米英の諜報機関が暗躍したクーデターでモサッデク政権を打倒。皇帝に再び実権が集中する体制を築かせました。

その後は皇帝の独裁体制のもと、外交面では欧米追従、内政面では脱イスラム化を軸とする急進的な近代化路線(白色革命)が強行され、反対派にはサヴァク(SAVAK)と呼ばれる秘密警察によって容赦のない弾圧が加えられました。また、皇帝が与える「恩恵」の最大の成果となるはずだった近代化も、その原動力となっていた石油価格が下落したことで思うように進まず、高まる不満と監視国家体制の鬱屈した社会情勢がイランを覆い、やがて各地で大規模なデモが発生するようになります。それに対し、皇帝は独裁権力の更なる強化と治安部隊を用いた強権的手法で応じたため、散発的だったデモは「反皇帝」と「イスラムへの回帰」を求める巨大な運動・暴動へと発展しました。1979年1月には遂に耐えかねた皇帝が国外へ脱出し、代わって運動の精神的支柱となってきたシーア派の高位法学者(注1)ルーホッラー・ホメイニが亡命先から帰国。運動を「イスラム革命」と位置付け、2月11日に帝政の正式な廃止を決定し、4月1日には法学者による統治に基づくイラン・イスラム共和国の樹立を宣言しました。これにより、紀元前から続いたイランにおける君主政治は終わりを告げ、新たに宗教界と政界が密接に結び付いた神権共和制が成立し、現在の独特なイランの国家体制を形作るようになったのです。


イラン・イスラム共和国
جمهوری اسلامی ایران (ジョムフーリーイェ・エスラーミーイェ・イーラーン)
Islamic Republic of Iran (イスラミック・リパブリック・オブ・イラーン)

Map_of_Iran.gif

統計データは原則として2015年時点のもの。

[地理]
位置:アジア
面積:約164.8万km² (日本の約4.4倍)
人口:約7847万人
都市人口率:73.4%
首都・最大都市:テヘラン (ペ:تهران‎‎ 英:Tehran)
主要民族:ペルシア人61%
       アゼルバイジャン人(トルコ系)16%
       クルド人10%
       ロル人(クルド人の一派と見なす資料もある)6%
       アラブ人2%
       バローチ人(ペルシア系)2%
       トルクメン人(トルコ系)2%
       他に北カフカス系、アルメニア人、アッシリア人など。
主要言語:ペルシア語が公用語で、過半数の国民が母語として使用し、
       他言語の話者も基本的に第二言語としてペルシア語を習得
       している。少数言語としてはアゼルバイジャン語、クルド語、
       ロル語、アラビア語、バローチ語などの各民族語が存在。
主要宗教:イスラム教99%
        シーア派91~95% (国教)
        スンナ派4~8%
       キリスト教、ユダヤ教、ゾロアスター教は公認少数宗教として
       一定の保護が与えられているが、最大の少数宗教とされる
       バハーイー教の活動は、厳しく制限されている。

[政治・軍事]
建国:紀元前550年(アケメネス朝ペルシア成立、ペルシア帝国の創始)
    1979年2月11日(革命によりパフラヴィー朝廃止、帝政崩壊)
    1979年4月1日(イラン・イスラム共和国成立)
国連加盟:1945年10月24日(原加盟国)
政治体制:共和制、大統領制、神権政治
元首:最高指導者(注2)
    シーア派の有力法学者で構成される「専門家会議」が選出。
    同会議に罷免されない限り在任(終身制)。
    大統領(注2)
    直接選挙制。任期4年。連続しての3選は禁止。
政府:閣僚評議会(内閣に相当、首相職なし)
    閣僚は大統領が任命するが、議会の承認が必要。
議会:一院制のイスラム諮問評議会
    290議席。直接選挙制(大選挙区制)、任期4年。
    うち5議席はゾロアスター教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒、
    アッシリア人、アルメニア人に割り振られた少数派保護枠。
政党制:多党制。小党乱立の傾向があるが、政党の影響力は小さい。
     (神権政治体制に反対する政党の結成は禁止)
国政選挙権:18歳以上の国民全て
兵役制度:徴兵制
国防費:170億9000万米ドル
軍組織:イラン・イスラム共和国軍(正規軍)
      陸軍35万人
      海軍1万8000人
      空軍3万7000人
      防空軍1万5000人
     イスラム革命防衛隊(注3)
      陸軍10万人
      海軍5000人
      空軍2万人

[経済・通信・その他]
中央銀行:イラン・イスラム共和国中央銀行
通貨:イラン・リアル (rial, IRR)
国内総生産(GDP):4253億2600万米ドル
1人当たりGDP:5376米ドル
GDP構成比:農林水産業9.3%
        鉱工業38.4%
        サービス業52.3%
労働人口:2907万人
失業率:10.5%
輸出額:646億1000万米ドル
輸出品:原油、有機化合物、鉱石(特に鉄と銅)、泥炭、ナッツ類、果物、絨毯
輸出先:中国22%、インド10%、トルコ8%、日本5%、韓国4%
輸入額:524億2000万米ドル
輸入品:機械類、鉄鋼、穀物、自動車と部品、医薬品、繊維原料、精密機器
輸入元:UAE40%、中国22%、韓国5%、トルコ5%、インド4%
固定電話回線数:3041万9000回線
携帯電話回線数:7421万9000回線
国別電話番号:98
ccTLD:.ir
インターネット利用者数:約3915万人
車両通行:右側通行
平均寿命:71.5歳 (男性69.8歳、女性73.1歳)

[日本との関係]
国交樹立:1929年8月
相手公館:大使館 (東京)
駐日相手国人数:4258人 (永住者2600人、特別永住者9人)
相手輸出額:31億6000万米ドル
相手輸出品:原油が9割半以上、わずかに絨毯も輸出
日本公館:大使館 (テヘラン)
在留日本人数:619人 (永住者433人)
日本輸出額:2億5000万米ドル
日本輸出品:自動車と部品、機械類、アルミ製品、精密機器、化学薬品
現行条約:1939年 修好条約
       1953年 国交再開のための交換公文
       1958年 文化協定、経済技術協力協定
       1963年 司法共助取極
       1974年 査証(ビザ)相互免除取極
           (1992年より一部の条文が効力停止中)
       2016年 受刑者移送条約

(注1)
イスラム教における法学者(علماء ウラマー)は、キリスト教などにおける聖職者と同様の存在だが、イスラム教ではイスラム法(シャリーア)の理解者にして教導者という面を強調する立場から、日本語訳では聖職者ではなく法学者という用語が用いられる。

(注2)
1979年の革命以降、イランは国教であるイスラム教シーア派の高位法学者で構成される「専門家会議」が選出する最高指導者を国家元首としている。最高指導者は三権及び軍(正規軍とイスラム革命防衛隊)の上位に君臨し、国家政策の最終的な意思決定を担う。

一方で民選の大統領も存在するが、こちらは最高指導者のもとで行政府の運営のみを委任された役職であり、実際の権限は列国の首相に近い。ただし外遊や国際行事の際は例外的に元首級として扱われ、ほぼ外遊機会が無い宗教家の最高指導者に代わって、政界の代表として国際社会におけるイラン政府の顔役を務める。

(注3)
イスラム革命防衛隊は、1979年の革命後、それまで皇帝の指揮下にあった正規軍に全幅の信頼を置けなかった新指導部により成立された、もう1つの「軍隊」。平時は国内の治安維持や住民の法令順守状態の監視、国境警備などに携わる部隊だが、正規軍の任務が国防を主眼としているのに対し、革命防衛隊の主任務は現在のイスラム神権政治体制の保持にあり、両者の性格は微妙に異なる。ただし有事には、革命防衛隊も正規軍と並んで外敵に対する国防任務も担う。

なお、かつては国防省が正規軍を、革命防衛隊省が革命防衛隊を管轄する併存状態にあったものの、1989年に両省は統合され、国防軍需省が新設されたため、現在は革命直後ほど両者の分化は進んでいない。


《国歌「イラン・イスラム共和国国歌」》
制定:1990年
作曲:ハッサン・リヤヒ
作詞:複数人による共作

陽は東の地平線に昇り、
神の信徒の目に光が宿る。
バフマン月(イラン暦11月)は、我らの信仰の極致。

おお、イマーム(注4)よ。
独立と自由こそ我らの目標。
という貴方の言葉は、我らの心に刻み込まれている。
おお、殉教者よ!
その叫びは今まさに聞き届けられたぞ。

絶えることなく持続せよ、永遠であれ。
イラン・イスラム共和国。

《国名の由来》
古代インドのサンスクリット語で「高貴な人々」を表すアーリヤナという言葉が転じて、アーリア人という民族名になり、その一派を名乗るペルシア人が自国を指して「アーリア人の国」を意味するایران(イーラーン)と転訛させた。この名称はペルシア人の領土を表す地名として、大変古くから国内的な名称として用いられてきた言葉であり、この国が諸外国からペルシアと呼び習わされてきた頃にあっても、ペルシア語ではイーラーンが国名とされてきた。

1935年に外国語による表記が他称であるペルシアから、自国語名であるイランに改められたが、ペルシアとはイラン中南部の古代の呼び名であるパールサ(「馬に乗る人」を意味するパールスの形容詞)に由来する地名で、これを古代ギリシャ人がΠέρσις(ペルシス)と表記したのが始まり。現在、この地方はパールスがペルシア語に転訛したفارس(ファールス)という州になっており、現代ペルシア語もفارسى(ファールシー。ファールスの形容詞)という別名を持っている。

もっとも、帝政時代はイランとペルシアの使い分け基準は曖昧で、両者が混用されていた。1935年の外国語表記変更以降もそれは変わらなかったが、1979年の革命によって公式国名がイラン・イスラム共和国と改められてからは、もっぱらイランが使われるようになっている。

旧国名
6世紀頃-
1501
 ペルシア
(ペ)ایران (イーラーン)
(英)Persia (ペルジャ)
1501-
1935
 ペルシア帝国
(ペ)دولت شاهنشاهی ایران
  (ケシュヴァーレ・シャーハンシャーヒーイェ・イーラーン)

(英)Imperial State of Persia
  (インペリアル・ステイト・オブ・ペルジャ)
1935-
1979
 イラン帝国
(ペ)دولت شاهنشاهی ایران
  (ケシュヴァーレ・シャーハンシャーヒーイェ・イーラーン)

(英)Imperial State of Iran
  (インペリアル・ステイト・オブ・イラーン)


(注4)
1979年のイラン・イスラム革命を指導し、1989年に死去するまで初代最高指導者として革命後のイランを率いたルーホッラー・ホメイニ師をここでは指す。もともとامام(イマーム)という言葉は、スンナ派においては宗教儀礼を行う上でその模範となる信徒、といった意味合いに過ぎないが、イランを含むシーア派諸国ではイスラム共同体の長として、政治や文化、軍事をも統括する政教一致の指導者を指す。

コメント

非公開コメント

プロフィール

嫁ドリル

Author:嫁ドリル
国旗と酒をこよなく愛する関西女。
カイロ、ドバイ、カルガリー駐在員を経て、現在は関東で働きながら旦那と1女1男の4人暮らし中。

国旗に関しては、まずは基礎知識カテゴリを熟読して下さい。

ツイッターやってます。基本的に更新情報はここでつぶやいてます。

カテゴリ
最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

外部リンク
QRコード
QRコード
リンク
検索フォーム
RSSリンクの表示
Flag counter