アフガニスタン

アフガニスタン
افغانستان (アフガーネスターン) (ダリー語)
افغانستان (アフガーニスターン) (パシュトー語)
Afghanistan (アフガニスターン) (英語)

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アフガニスタンは西アジアと南アジアの中間点に位置する内陸国です。領域の大半は山岳で、国の北部中央地帯には標高7000mを超える山々を抱えるヒンドゥークシュ山脈が、万年雪をたたえながら、国土の屋台骨のごとくそびえたっています。他の地域も南部のレギスタン砂漠を中心に広範な乾燥帯となっており、農耕に適した土地は多くはありません(可耕地は国土の5%、多くても10%程度とされる)。また、気候は冬が極端に寒く、夏は過酷な炎熱の地となるため、遊牧民以外の人々は、歴史的に特定の過ごしやすい地域内に固まって生活を営んできました。それ故に、地域ごとに各民族の勢力圏がはっきりしているのが特徴で、アフガニスタンを多民族国家たらしめる大きな要因となったようです。なにせ国歌に登場する主要民族だけで14民族が存在し、それらが互いに異なる系統や言語、習俗を持つため、その文化的風土を一言で表現することは不可能ですが、おおむね農業と畜産を中心とした男性社会であり、敬虔かつ保守的なイスラム教徒が多い点では共通するほか、大国や支配者の意向に翻弄され続けてきた過去の経験から、外敵への敵愾心や中央政府からの自立心が非常に強いことが挙げられます。もっとも、都市部においてはこの様相もかなり異なり、多くの民族が共存し外国人を温かく迎え入れる開放的な文化が花開いた地域もあります。特に首都カーブルは、後述するように国際交易によって繁栄した歴史を持つコスモポリタンな大都会であり、「文明の十字路」の異名を持つアフガニスタンの玄関口として、古くからその重要性が認知されてきた都市です。

アフガニスタンの地には約10万年前から原始人類の定住が見られるようになり、紀元前2500年頃になると都市文化が生まれ、インド、ペルシア(イラン)両地域との交易拠点となりました。紀元前550年になると西方でアケメネス朝ペルシアが建国され、アフガニスタンもその版図となり、その時代に流入したペルシア人の一派が現在の最大民族パシュトゥーン人(狭義のアフガン人)という民族を形成していったといいます。その後は様々な民族の支配を受け、東西世界を結ぶ国際交易路、いわゆるシルクロードの一大拠点となって多くの物品や民族が行き交う土地となりましたが、13世紀になるとユーラシア大陸を席巻したモンゴル帝国の支配下となり、その滅亡後は数々のイスラム王朝が興亡を繰り広げました。そんな群雄割拠のアフガニスタンに初の統一王朝を打ち立てたのが、1747年にアフマド・シャー・ドゥッラーニーによって建国されたドゥッラーニー朝で、現在のアフガニスタンのほか、パキスタンやインド、そしてイランの一部を支配する広大な部族国家を実現。この巨大帝国の出現に危機感を募らせた諸外国により徐々に領土は縮小されていったものの、アフガン人の武勇は1826年に本家のドゥッラーニー家から分家のバラクザイ家に王位が移った後も周辺に大きな脅威として認知され、その名をとどろかせることになりました。その後の歴史の記述は下記の旧国旗の欄に譲りますが、徐々に西洋の近代国家に太刀打ち出来なくなっていき、異教徒の支配を受けたという経験が、かつて大帝国を築いた誇り高いアフガン人のプライドに大きな傷を付け、外国人やその文化を一切拒否したタリバーンのような勢力を作り出す土壌を醸成したのかもしれません。

アフガニスタンは王位の移り変わりや政権の変遷によって、国旗がコロコロと変わった国です。20世紀中に限れば世界で最も国旗の変更が多かった国であり、下記の旧国旗の欄でもその全てを網羅することは出来ていません(使用期間が半年程度の政権移行期の旗などは原則として本文から除外しています)。現国旗は国際テロ組織アル=カーイダと親密な関係を築いたとして悪名高いタリバーン政権が、2001年12月に米軍主導で打倒されたのを機に考案されたもので、翌2002年に正式に国旗として制定されました。この国旗は黒、赤、緑の縦三色旗の中央に国章を置いたデザインで、黒は外国に侵略・抑圧された暗黒の時代、赤は独立のために流された血、緑は自由と平和を表します。また同時に、緑はイスラムの預言者ムハンマド(マホメット)が使っていたターバンの色とされており、イスラム教徒にとっては聖なる色として崇められている色でもあります。中央の国章にはイスラム教の礼拝堂(モスク)にあるミフラーブと呼ばれる窪みが描かれていますが、これは礼拝の際にメッカのカーバ神殿の方角を指し示す壁で、その両サイドには旗とミンバルという説教台が置かれています。その上にはイスラム教の信仰告白(シャハーダ, 注1)が、下部にはイスラム暦1298年とアフガニスタンという国名がペルシア文字で書かれています。イスラム暦1298年は西暦でいうと1919年に当たりますが、これは第三次アフガン戦争の結果、イギリスの保護国だったアフガニスタンが主権を回復して独立国となった年です。これらの意匠を、国民の大半を占める農民と主要作物を表す小麦の穂が囲んでいます。制定当初は縦横比が細長い1対2だったり、国章の色が金色だったりと混乱も見られましたが、2004年に現行憲法が採択されると、上記のデザインに収まりました。ただし一部資料では、赤の範囲に収まっているはずの国章が黒や緑の部分にも掛かるぐらい大きく描かれるなど、使用者によっては尚もデザインに一定のは差異は見受けられます。

縦横比:2対3

【旧国旗】
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1880年に首長(アミール。1926年までのアフガニスタンの君主称号)に即位したアブドゥルラフマーン・ハーンのもとで用いられた国旗です。彼の治世下のアフガニスタンではデザインの無い黒一色の旗が掲げられましたが、これはイスラム圏で伝統的に勝利を表す色とされ、イスラムの預言者ムハンマドのターバンの色とされる緑と並んで、イスラム世界の各地で好んで使われる色です。1901年、アブドゥルラフマーンの死去により廃止。

アブドゥルラフマーンは1878年から2年間にわたって続いた第二次アフガン戦争の結果、外交権をイギリスに委譲し保護国となったアフガニスタンに、初めて大規模な近代化路線を導入した人物として知られます。それまでのアフガニスタンは、各地方の封建領主(太守)による分権統治、いわば部族連合政権としての性格が強く、中央政府の統治権は限られていたのですが、これを主権の確立した領土国家、すなわち強力な中央集権国家に移行させようと様々な改革を試みました。その中で旧来の体制の受益者たる封建領主、地主、宗教界といった保守層を中心に多方面から反発が相次ぎましたが、彼は徹底的な弾圧・迫害によって反対勢力を封じ込め、1901年に死去するまで改革・近代化路線を継続。その"鉄のアミール"と呼ばれ、恐れられた強権的・独裁的な政治手法には批判の声も挙がるものの、一般的には現在まで続くアフガニスタン国家の基礎を築きあげた人物として高く評価されています。

Flag_of_Afghanistan_(1901–1919)
1901年、アブドゥルラフマーンの死去を受けてアミールに即位したハビブッラー・ハーンは、それまでの黒一色の旗に白抜きで近代的な国章を配置しました。この国章にはミフラーブと旗、そしてミンバルが置かれ、アフガニスタンが改革路線を歩みつつも、なおもイスラム世界の一員として存続していくことを象徴します。その下部に置かれた砲と剣は、特にこの時期に際立った近代化が見られた軍備を表し、周囲を花輪が囲んでいます。1919年廃止。

ハビブッラーは父の改革路線を受け継ぎ、引き続きアフガニスタンの近代化と中央集権化を推進。西洋の技術(特に軍事と医学)の導入に努める一方、反対者には父と同様の強硬策で応じ、アミール顧問団の重鎮かつ保守派の第一人者でもあったアブドゥル・ラティーフを1903年に容赦なく処刑するなど、武断政治に拠った締め付けを一層強化していきました。

結局、このような強引な政権運営は1919年に暗殺という形で彼に跳ね返ってくることとなりましたが、父王の即位以来40年近くにわたって断行された一連の大改革により、少なくとも一部のアフガニスタン人の国民意識には変化が生じ、イギリスから外交権を取り戻して正式な独立を勝ち取ろうという機運が高まり、後の第三次アフガン戦争へと繋がっていくこととなります。

Flag_of_Afghanistan_(1919–1928)  Flag_of_Afghanistan_(1921–1926)
1919年2月21日のハビブッラー暗殺後、一時は弟のナスルッラー・ハーンが即位を宣言しましたが、ハビブッラーの三男であり後継者と目されていたアマヌッラー・ハーンとの間で権力闘争が起き、約一週間後の2月28日には首都カーブルを制圧したアマヌッラーが正式に即位しました。彼の治世下で翻った旗は、より様式化されたモスクや武器などの意匠を、イスラム圏の伝統的な装飾であるルーブ・アル=ヒズブという八芒星で囲んだもので、自主独立・国家建設という光に向かって進んでいくこの時期のアフガニスタンの決意が表れています。1921年には、国章が上下に引き伸ばされる微修正(右の旗)が行われ、1928年まで用いられました。

アマヌッラーは即位後、イギリスが第一次大戦で疲弊したこの時期を好機と見て、ただちにアフガニスタンの完全独立を宣言。隣接するイギリス領インドに軍を進め、イギリスとの戦争状態(第三次アフガン戦争)に突入しました。戦線は近代兵器を持つイギリスと、装備は脆弱ながら地の利を生かせるアフガン軍の間で一進一退の攻防が続き、膠着。1919年6月には休戦が実現し、両国の間で会談が重ねられ、同年8月には遂に正式な和平条約であるラワルピンディ条約が締結されました。

この条約により、イギリスはアフガニスタンに外交権を返上し、完全独立することを承認。また、イギリス領インドの領域拡大政策をアフガニスタンの国土には適用せず、領土保全も確約しました。ただ、保護国としてイギリスから受け取っていた多額の補助金も同時に廃止されたため、産業基盤が脆弱かつ内陸国で貿易も振るわないアフガニスタンの財政は逼迫するようになり、アマヌッラーは更なる急進的な近代化路線と経済建設を推進する必要に迫られることにもなったのです。

Flag_of_Afghanistan_(1928–1929)
1928年半ばに制定された国旗で、アフガニスタン史上初めて黒・赤・緑の三色が導入された旗です。色の意味合いは現在の国旗と同じですが、中央の国章はアフガニスタンの国土の多くを占める高い山々に、独立国としての門出を表す日の出と星が描かれ、周囲を国の主要作物である小麦の穂が覆うデザインとなっています。下部の帯にはイスラム教の唯一神であるアッラー、そしてその預言者ムハンマドの名が刻まれています。なお、1928年の短期間だけ前国旗の国章を受け継いだ横三色旗が使われたとの情報もありますが、残念ながらWikipedia以外のいかなる旗章学的資料にも歴代国旗の1つとして挙げられていない、またはその実在性を疑問視する文脈でしか掲載されていないため、本文中には記載していません。

この国旗が制定された契機は、アマヌッラー国王夫妻が1927年12月から1928年7月まで、半年以上もの長期間をかけておこなったヨーロッパ歴訪とされています。アフガニスタンの元首としては史上初めてヨーロッパの地を踏み、先進的な技術や異国ならではの文化に触れた国王夫妻は、この訪問に大きな感銘を受け、同地で主流となっていた三色旗を、先進的なデザインの象徴として受け入れたといいます。なお、このヨーロッパ歴訪の途中、アマヌッラーはエジプトとトルコにも立ち寄り、イスラム国家で近代化政策を進める上で同じ苦悩を経験した両国首脳から、反発を抑えつつ政策を推進するためのノウハウを学んだとのこと。

また、国旗改定に先立つ1926年に君主称号が首長(アミール)から国王へと変更され、国名もアフガニスタン王国と定められました。今でこそ一国平等の原則から、アミールを元首とする首長国と、国王を元首とする王国の間に差は設けられていませんが、当時はまだ君主号の「格」がそのまま国家としての格に繋がる旧来の思想が根強く、地方の武官総督の称号から始まったアミールのままでは、外国の支配を退けた独立国であることをアピールできないという、アマヌッラーの判断が作用したものと思われます(彼自身の名前の一部も単に王族や有力氏族の出身者であることを表すハーンから、支配者たる王を意味するシャーに改名)。

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西洋文化に触れ、近代化路線を推し進めていたアマヌッラー・シャーですが、依然として国民のほとんどは伝統的なイスラム文化と部族社会の中で生活していたこともあり、改革の急進性が増すと多くの人々が反発心を強めました。特に少数民族や宗教界の間では、それまで開発の外に置かれ冷遇され続けてきたことと、自分たちの文化が脅かされる危惧が合わさって、王家に対する不信感と失望が限界に達し、大規模な反乱に繋がります。アマヌッラーもこれを武力で制圧しようとしたものの、1929年1月には遂に反乱軍が首都カーブルを陥落させ、その指導者ハビブッラー・カラカーニー(少数民族タジク人出身)が王位を簒奪しました。ちなみに王位を失ったアマヌッラーはイタリアに亡命、次いでスイスに居を移し、再び祖国の地を踏むことなく1960年にその一生を終えています。

しかし、イギリスは自らの持つ最大の植民地(イギリス領インド)のすぐ隣に反西洋、特に歴史的経緯から反英感情が強い政権が誕生したことを危険視し、王家を支援。とりわけ第三次アフガン戦争で多大な戦果を挙げ祖国の英雄となり、アマヌッラー政権下で国防相を務めた王族出身の軍人ナーディル・ハーンを担ぎ上げ、反乱軍を次々と撃退。反乱政権成立からわずか9ヶ月後の1929年10月26日に首都カーブルを奪還し、ナーディル自らが国王への即位を宣言(名前はナーディル・シャーに)することで、ようやく国中を巻き込んだ大内乱は収束しました。

カラカーニー政権の目的は旧時代への回帰であり、西洋文化の否定とイスラム復興運動を掲げて権力を射止めたことから、国旗も13世紀にこの地がモンゴル帝国の支配を受けていた頃に使われていた赤・黒・白の三色旗と定められました。1747年にこの地で初のアフガン国家を築いたドゥッラーニー朝と、そこから派生し国を率いる存在となった王家(バラクザイ家)の支配を認めない彼の立場が、700年も前の旗を復活させることに繋がったわけですね。それぞれの色に特に意味付けは成されず、制定から9ヶ月後の1929年10月、王家の支配復活に伴い廃止されました。

Flag_of_Afghanistan_(1929–1931)
1929年10月にナーディル・シャーが国王に即位し、再びバラクザイ王家による支配が再興したことで、黒・赤・緑の三色旗が復活しました。ただし中央の国章は山々や日の出を描いたアマヌッラー政権最後のものではなく、それより更に前のもの(1921-1928年)のものが採用されています。これはアマヌッラー政権最後の国章が、西洋的なデザイン感覚を意識し過ぎており、反乱終結後も保守的な意見が大多数を占めていたアフガン国内で不評だったことが関係しているといいます。特に金色の縁を持つ赤い星は、宗教を害毒として弾圧したソ連の国旗との類似性から、宗教界に忌み嫌われた存在であり、ナーディルとしても庶民層に対して強い影響力を持つ宗教界と和解する必要から、削除せざるを得なかったという事情があります。しかし1931年の国章再改定に伴い、この国旗も廃止されることとなりました。

Flag_of_Afghanistan_(1931–1973)
1931年にナーディル・シャー政権下で制定された国旗です。1973年8月の王政崩壊まで、42年間にわたって使われ続けた国旗であり、政変によって国旗が次々と変わったアフガニスタンの歴史上、最も長く翻った旗でもあります。そのような存在であることから、国家が最も安定していた時代の象徴と見なされ、後述するタリバーン政権崩壊後に成立した暫定政権が、この旗の意匠を踏襲したものを国旗に定めました(2004年に正統政府に移行した後も、現在まで使用)。ただし、下部に書かれたイスラム暦はナーディル政権が始まった1348年(西暦1929年)となっており、上部にはシャハーダ(注1)が無く、また国章の大きさも異なるなど、微妙な差異はあります。

ナーディルは1931年に憲法を制定し、それまで宗教界との和解の必要性から停滞させてきた近代化路線を再始動させました。しかし一方で、国内の少数民族、特に中部に住むハザラ人に対する冷遇・迫害政策を推進したため、1933年にハザラ人青年により暗殺。後継にはフランスへの留学経験を持つ19歳の息子ザーヒル・シャーが即位しました。1973年まで続いたザーヒルの治世の前半は、彼のおじ達が首相として実質的に政務を取り仕切り、彼自身は取り立てて重要な政治運営を行いませんでしたが、第二次大戦が終結した頃からその手腕を振るうようになり、1953年には気心の知れた従兄弟のムハンマド・ダーウードを首相に任命して、国王中心の国家体制を築き上げていくことになります。

しかし二人とも改革路線の推進という総論では一致していたものの、保守層にも一定の配慮を見せ漸進的な改革を掲げるザーヒルと、より急進的な大変革を求めるダーウードとの間には次第に溝が出来るようになり、1963年にダーウードは首相を辞任。その翌年、ザーヒルは新憲法の制定により立憲君主制への移行を模索したものの、本格的な議会政治の導入は改革派と保守派、更には社会主義運動やイスラム復興運動など、様々な意見へと国民を分断し、ようやく安定的な統治が定着しつつあった政情は急速に悪化。1973年7月にザーヒルが眼の治療のためイタリアを訪問すると、権力の空白を狙ったダーウードが軍を率いてクーデターを起こし、翌8月には王制廃止と共和制への移行を宣言。その後、王位を退いたザーヒルはタリバーン政権崩壊後の2002年に帰国するまで、実に29年もの亡命生活を強いられることとなり、政治の表舞台から姿を消すこととなりました。

Flag_of_Afghanistan_(1974–1978)
クーデターで王政を打倒したダーウードは、自らの大統領就任を宣言し、新たに誕生したアフガニスタン共和国の運営を担うこととなりました。それに伴い、クーデター翌年の1974年5月に制定された新国旗は、黒・赤・緑の三色は王政時代から踏襲しつつも、縦三色旗から横三色旗に変更し、更にカントン部に国章を配したデザインとされました。国章はモスクの説教台の上に鎮座する鷲(権力の象徴)、その上部に新共和国の幕開けと輝かしい未来を象徴する太陽の光、下部に「アフガニスタン共和国」の国名とその成立年たるイスラム暦1352年(西暦1973年)が書かれたリボンを配し、その周囲を小麦の穂が囲むという意匠になっています。1978年廃止。

ダーウード政権は名称こそ共和国ですが、実質的には軍部の強い支持を背景に成立した経緯があり、その政治運営は極めて強権的でした。共和国憲法が1977年に制定され、一定の民主的体裁は取り繕われたものの、その実態は国内に数ある勢力、とりわけ彼が改革・近代化の疎外者として忌み嫌ったイスラム復興主義者の活動を軍の力で抑え込み、軍最高司令官たるダーウード大統領が政治の実権を確保する体制が作り上げられたのです。

無論、そうでもしないと国内の統一を維持できないほど、この頃のアフガニスタンがバラバラだったのも事実で、彼の政治理論も国家安定という大義の前ではそれなりに筋の通ったものではありましたが、イスラム復興運動と並んで国論を大きく分けた2つの主義のうち、もう片方の社会主義運動に対しては、もともと急進改革派だった彼も当初は比較的融和路線を採っていました。これが彼にとって文字通り致命傷となります。1978年4月、社会主義革命(サウル革命)によりダーウード一族が殺害され、アフガニスタンに社会主義政権が成立したのです。

Flag_of_Afghanistan_(1978-1980).png
1978年4月末のサウル革命後に制定された国旗は、アフガニスタンの伝統的な配色(黒単色、もしくは黒・赤・緑の三色)を完全に無視し、ソ連の国旗をモチーフとした社会主義色の強い意匠が定められました。赤の地色は社会主義国家の建設を表し、カントン部に置かれた国章も当時東欧を中心に各地の社会主義国で用いられたデザインと極めて似たもので、今までの歴代政権とは全く性格の異なる勢力が政府を牛耳ったことを、如実に物語っています。国章には革命のシンボルである星、国民の大半を占める農民階級を表す小麦の穂の中に、ハルク(خلق 人民)という文字が配され、その下に「1317サウル革命」「アフガニスタン民主共和国」という国名が書かれたリボンが置かれています。1317はイスラム暦1317年、すなわち西暦1978年を、サウルは4月を意味します。ただ、アフガニスタンのシンボルが皆無で、あまりにもソ連国旗に追従し過ぎたデザインだったため、さすがに新政権内部でも不評で、1980年に廃止されました。

サウル革命は、1965年に結成され組織を秘密裏に拡大していたアフガニスタン人民民主党と、軍内部に派閥を形成していた親ソ連派・親人民民主党派の主導により引き起こされました。イスラム復興運動が歴代政府の政策の一環として大規模に弾圧されたのに対し、社会主義運動への迫害が比較的緩く、組織的な活動が継続可能で、彼らが計画していた軍事的謀略も当局が把握できなかったようです。ともあれ、これにより社会主義国家アフガニスタン民主共和国の樹立が宣言され、以後人民民主党の一党独裁に基づく国家体制が続くこととなります。

そうはいっても、人民民主党も一枚岩だったわけではなく、1967年に路線対立により党はパルチャム派とハルク派に分かれ、それぞれが自らの理念にのっとり、社会主義政権樹立を目指して活動を続けていました。革命前年の1977年には、社会主義勢力を結集する目的で一旦両派は統合したものの、革命直後から再び対立が激化。また同じ派閥の中でも権力闘争が起き、革命後に新たに設置された革命評議会議長(国家元首)に就いたハルク派のヌール・ムハンマド・タラキーは、同じハルク派のハフィズッラー・アミーン首相によって1979年9月に投獄され、アミーンが革命評議会議長に就任。しかし混乱の隙を付いて社会主義政権に反発する諸部族やイスラム復興主義者による反乱が各地で相次いだほか、前タラキー政権下で急速にソ連への依存を深めた外交関係をアミーンが見直し、アメリカへの接近を模索したとして、1979年12月末、遂にソ連軍がアフガニスタンに侵攻。アミーンをはじめハルク派の主要幹部を処刑したうえで、ソ連指導部に忠実な政権の担い手として、パルチャム派のバブラク・カールマルを担ぎ上げたのです。

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1979年末に発生したソ連のアフガン侵攻という大事件は、当時緊張緩和(デタント)に向かっていた冷戦を再び対立の時代に逆行させただけではなく、支配政党である人民民主党がソ連の傀儡であるという非難を国内外に巻き起こし、その政権の正統性に大きな傷を付けることになりました。新たにソ連が誕生させたカールマル政権は、革命直後の急進的な社会主義化を緩め、宗教界の指導者や各部族長への一定の配慮を見せたものの、反乱勢力にとってはやはり社会主義は外国産の異質な思想以外の何物でもなく、緩やかになったとはいえ宗教や伝統生活への弾圧は依然として続いたため、彼らはやがて結託し、ムジャヒディーン(مجاهدين イスラム戦士)と呼ばれる軍閥を形成しながら、社会主義政権の打倒と駐留ソ連軍の撃退を目標に戦っていくことになります。

強大な軍事力を誇るソ連軍にムジャヒディーン勢力が対抗出来たのは、彼らが高い山々から成るアフガニスタンの地理を知り尽くし、効果的なゲリラ戦を展開することが可能だったことも大きく作用していましたが、何よりアメリカから潤沢な支援を得られたことが大きく関係していました。イラン革命で西南アジアの巨大な橋頭堡を失ったアメリカにとって、同地域でこれ以上敵対勢力が拡大する事態は是が非でも避けたいという思惑があり、いわば「敵の敵は味方」「社会主義者よりはマシ」という理論で彼らへの支援を決定したのです。こうしてアフガン内戦は米ソ冷戦の最前線となり、泥沼化の一途をたどっていくことになります。対するソ連も1986年にカールマルを失脚させ、秘密警察の長官だったムハンマド・ナジーブッラー(パルチャム派)を後継指導者にさせるなど、介入をエスカレートさせていきました。

1980年に制定された上記の国旗は、前国旗を除く歴代国旗に受け継がれてきた黒・赤・緑の伝統的な配色を復活させたもので、カールマル政権下のアフガニスタン民主共和国が、社会主義思想だけでなく国家の歴史をも引き継ぐ正統な政権であることをアピールするために作成しました。また、イスラム教の聖なる色である緑を復活させることで、人民民主党がイスラムの敵ではないと示し、ムジャヒディーンが闘争の精神的支柱としていた宗教界を懐柔する意味合いもあったようです。カントン部に置かれた国章は、モスク内の説教壇、イスラムの聖典『クルアーン(コーラン)』、新時代の象徴である太陽の光、社会主義を表す赤い星、そして農民と労働者を意味する小麦の穂と歯車で構成されています。全体としては社会主義色が色濃く反映されたデザインですが、随所にイスラム信仰への配慮を施さざるを得なかった辺りに、政権の苦悩が見てとれますね。1987年廃止。

Flag_of_Afghanistan_(1987–1992)
相変わらず激しい内戦が続いていたアフガニスタンですが、1987年に革命評議会議長に就任したナジーブッラーのもとで、カールマル政権時代よりも更に踏み込んだ融和路線が採られました。その一環として国名がアフガニスタン共和国に戻され、元首の称号も社会主義的な革命評議会議長から、通常の共和制国家の元首称号である大統領となり、国章からも社会主義の象徴である赤い星が外されています。全体のレイアウトとしては依然として他の社会主義国の国章とさほど変わらないものの、この頃になると民心が離反した政権・ソ連軍側の劣勢は明らかで、ムジャヒディーン勢力が国土の8割以上を支配するようになり、政権は首都カーブルなど一部の都市にしか統治権を及ぼせなかったとのこと。

更には1988年よりソ連軍の撤退が開始(1989年撤退完了)されたことで、最後の後ろ盾を失ったナジーブッラー大統領は、1990年に人民民主党を祖国党と改称し、遂に社会主義路線を放棄。イスラム主義、部族主義など主張の別は問わず、国内の幅広い勢力を政府に受け入れると表明しましたが、もはや何の求心力も持たなくなった政権にすり寄る者は無く、1992年にムジャヒディーン勢力の大攻勢で最後の拠点である首都カーブルが落とされ、アフガニスタンにおける一党独裁政治は終わりを告げました。上記の国旗も同年中に廃止されています。

Afghanistan_under_the_Mujahideen_rule_1992-1996.png
1992年にナジーブッラー政権を打倒して成立した、ムジャヒディーン各勢力による連合政権の国旗です。緑はイスラム教を、白は平和と純潔を、黒は外敵に支配された暗黒の時代と、それらの勢力に対する勝利を意味し、これまでの政権とはうってかわって、非常にイスラム色の強い国旗となっています。また国章には王政時代のようにミフラーブやミンバルが描かれ、上部にはイスラム教の聖句であるシャハーダ(注1)と「神(アッラー)は偉大なり」という言葉、そして新しいイスラム国家の誕生を告げる太陽の光が、下部には政権樹立年であるイスラム歴1371年(西暦1992年)という文字が配されています。その下にあるリボンにはムジャヒディーン連合政権の公式国名アフガニスタン・イスラム国を意味するペルシア文字が書かれ、これらを伝統的な意匠である小麦の穂、ならびに戦いにおける勝利を意味する剣が囲んでいます。黒・緑はそれぞれアフガニスタンの伝統的な民族色とイスラム教の聖なる色ですが、間に白が入ったのは、ムジャヒディーンが赤を旧社会主義政権の象徴として嫌ったためとのこと(本来は独立のために流された血を表す色ですが、この頃はとにかく赤への嫌悪感が強い時代だったようです)。

しかしこの連合政権も、いざ共通の敵であったナジーブッラー政権を打倒するとまとまりを欠くようになり、権力闘争から再び内戦を再開してしまいました。一言でムジャヒディーンと言っても、その内実は様々な主張を掲げる諸勢力(少数民族を含む)の寄せ集めであり、各勢力は反社会主義闘争時代に獲得した支配地で恣意的・強圧的な統治を実施し、住民を苦しめます。その後は連合政権の大統領となったブルハヌッディーン・ラッバーニー(タジク人)への攻撃を仕掛け、中央政府を掌握しようという勢力も登場する始末で、もはやアフガニスタンは国家としての体裁も保てないほどの無秩序状態に陥りました。戦いに次ぐ戦いと一向に改善されない貧困、バラバラになった国家に疲れ果てた国民は、強力な指導者による安定した統治を望み、1994年の誕生以来急速に勢力を伸ばしたある組織に望みを託すことになります。その組織の名はタリバーン(طالبان‎)といいます。

もともとタリバーンとはアラビア語で学生、特に神学校の学生を指す言葉であるタリブ(طالب)の複数形ですが、これは後にタリバーン政権の元首となるムハンマド・オマルが南部の都市カンダハルに設立したマドラサ(イスラム学院)から、その学生を中心に生まれた組織であるために付いた名です。タリバーンは50人にも満たないマドラサの学生から、イスラムの教義に基づく秩序の回復と安定統治を訴えてスタートしましたが、やがて内戦から逃れるため外国に難民として移住したアフガニスタン人の一部、隣国に自らの息が掛かった政権を作りたいパキスタン政府、そして最大民族パシュトゥーン人の間に支援を受けながら武装勢力化し、破竹の勢いで国土を掌握。少数民族主体の連合政権はこれに太刀打ちできず、1996年には遂に首都カーブルがタリバーンの手に落ちたのです。無論、ムジャヒディーンも手をこまねいていたわけではなく、タリバーンの過激性を国際社会にアピールしながら、再び結集して北部の一部地域でアフガニスタン・イスラム国政府を存続させていました(この時期のイスラム国政府が、いわゆる北部同盟)。その甲斐もあって、国際社会はパキスタン、サウジアラビア、アラブ首長国連邦の3ヶ国を除いてタリバーン新政権を認めず、国連のアフガニスタン代表権もラッバーニー率いる北部同盟政府に引き続き与えられていたため、タリバーン政権が崩壊する2001年までこの旗が国際的に承認された「アフガニスタン国旗」と見なされていました。

Flag_of_Taliban_(Islamic_Emirate_of_Afghanistan_1997-2001).png (★See below)
1996年に首都カーブルを陥落させ、新政権を樹立したタリバーンの旗です。タリバーン政権は公式にはアフガニスタン・イスラム首長国といい、首長として指導権を牛耳ったオマルのもと、一時は国土を9割を実行支配する巨大勢力となりました。もともとタリバーンは純粋な信仰心を表す真っ白な旗を組織旗として使っていましたが、政権を獲得すると、翌年には従来の白旗の中央にイスラム教の聖句であるシャハーダ(注1)を置いた旗を制定。これをアフガニスタン・イスラム首長国の国旗と定めました。後述のようにタリバーン政権は樹立後わずか5年で崩壊したものの、タリバーン自体が消滅したわけではなく、今でも現政府に対して散発的な攻撃を続けているタリバーン兵士がこの旗を掲げています。

南部のカンダハルから始まったタリバーンの武装闘争は、政権樹立後もムジャヒディーン勢力の残党が残る北部への進撃という形で続けられ、その組織的かつ規律的な統治に当初はアフガニスタン国民も期待を寄せました。しかし、タリバーンが掲げる「イスラムに基づく秩序」はあらゆる種類の娯楽の禁止、女性の就学・就労禁止、西洋技術の拒否、民主主義の否定、頻繁な公開処刑(政界から引退したナジーブッラーもその犠牲に)、少数民族への迫害など、南部のパシュトゥーン人地域の中でもごく一部の最強硬派にしか通用しないような、極めて部族色の強い思想(パシュトゥーンワリ)にのっとったもので、少数民族が多くなる北部では受け入れがたいものでした。特に首都カーブルは、古くから東西交易の拠点として栄えた歴史ある国際都市であり、そこに持ち込まれたあまりに極端な教義解釈は、一般的なイスラム教徒からしても幾分過激なものとして拒否される傾向にあったのです。そうした国民感情もあってか、タリバーンの指導者オマルもカンダハルから一切動かず、身内で固めたカンダハルの評議会から首都カーブルの中央省庁に命令を下すという、首都機能の逆転現象も起きました。

このような偏狭な統治に西洋諸国はおろか、イスラム神権政治体制を敷く隣国イランすら「タリバーンはイスラム文化を含む全ての文化の破壊者である」とするなど批判が高まり、歴史的に保守的とされるアフガニスタン国民にも異端視されていく中、追い詰められたタリバーンは求心力を失い、次第に西方から過激派兵士を率いてやってきた国際テロ組織アル=カーイダ、およびその指導者であるウサマ・ビン=ラーディンの影響下に置かれるようになります。1999年頃から、タリバーンの教義はもはやパシュトゥーンワリからすら外れるようになったとされ、かねてより懸念されてきた人権蹂躙が更にエスカレートしていきました。2001年9月11日には、アル=カーイダ構成員にハイジャックされた飛行機により、アメリカの世界貿易センタービルがテロ攻撃にさらされ倒壊する大事件が発生し、遂に堪忍袋の緒が切れたアメリカは、アル=カーイダの壊滅、およびそれをかくまうタリバーン政権の打倒を掲げて大規模な軍事作戦を展開。ここにきて最大の後見国だったパキスタンもタリバーンを見限り、アメリカ軍による対タリバーン攻撃を認めました。その圧倒的な武力にタリバーンはなすすべもなく、2001年12月に政権は崩壊。これに乗じて北部同盟軍が首都カーブルに入城し、翌2002年に暫定政権が発足。2年間の体制移行期間を経て、2004年に現在のアフガニスタン・イスラム共和国が誕生しました。


アフガニスタン・イスラム共和国
جمهوری اسلامی افغانستان
(ジョムフーリーイェ・エスラーミーイェ・アフガーネスターン)

د افغانستان اسلامي جمهوريت
(ダ・アフガーニスターン・イスラーミー・ジュムフーリヤト)

Islamic Republic of Afghanistan
(イスラミック・リパブリック・オブ・アフガニスターン)


Map_of_Afghanistan.gif

統計データは原則として2015年時点のもの。

[地理]
位置:アジア
面積:約65.3万km² (日本の約1.7倍)
人口:約3128万人
都市人口率:26.7%
首都・最大都市:カーブル (ダ・パ:کابل‎ 英:Kabul)
主要民族:パシュトゥーン人(ペルシア系。狭義のアフガン人)42%
       タジク人(ペルシア系)27%
       ハザラ人(モンゴル系)9%
       ウズベク人(トルコ系)9%
       アイマク人(ペルシア系。一部にモンゴル系)4%
       トルクメン人(トルコ系)3%
       バローチ人(ペルシア系)2%
       他にパシャエイ人、ヌリスタン人など。
主要言語:ダリー語(ペルシア語アフガン方言)とパシュトー語が公用語。
       パシュトー語は最大民族パシュトゥーン人の民族語であり、
       その話者数はパシュトゥーン人の数に比例する。一方のダ
       リー語はより多くの民族をまたぐ共通語として用いられてお
       り、国民の半数が理解可能。他にタジク語、ウズベク語など
       各少数民族の母語も、地方によっては公用語に準じた地位
       を獲得している。
主要宗教:イスラム教99%
        スンナ派80~85% (国教)
        シーア派15~19%
       少数のゾロアスター教、シク教など。

[政治・軍事]
建国:1747年(ドゥッラーニー朝の成立)
独立:1919年8月19日(外交権の回復。内政権はそれ以前より保持)
国連加盟:1946年11月19日
政治体制:共和制、大統領制
元首:大統領
    直接選挙制。任期5年。3選禁止。
政府:内閣
    閣僚は大統領が任命、ただし下院の承認が必要。首相職は2001
    年以来廃止状態だったが、2014年に首相に相当する役職として行
    政長官が新設された。行政長官は設置2年を目途に憲法改正を経
    て正式に首相へと移行する予定。
議会:二院制の国民議会(注2)
    ●長老議会(メシュラノ・ジルガ、上院)
     102議席。大統領による任命枠、各州議会の選出枠、各郡議会
     による選出枠が34議席ずつ。任期は大統領任命議員が5年、州
     議会選出議員が4年、郡議会選出議員が3年。
    ●人民議会(ウォレシ・ジルガ、下院)
     249議席。直接選挙制(大選挙区制)、任期5年。
政党制:多党制
     (政党の影響力は小さい)
国政選挙権:18歳以上の国民全て
兵役制度:志願制
国防費:不明 (30~50億米ドル前後と推計される)
軍組織:アフガニスタン軍
     陸軍18万3000人
     空軍6800人

[経済・通信・その他]
中央銀行:アフガニスタン銀行
通貨:アフガニ (afghani, AFN)
国内総生産(GDP):191億9900万米ドル
1人当たりGDP:590米ドル
GDP構成比:農林水産業20~25%
        鉱工業:20~25%
        サービス業50~55%
労働人口:不明 (1000万人前後と推計される)
失業率:不明 (40%前後と推計される)
輸出額:8億6600万米ドル
輸出品:果物と野菜、綿花、石炭、鉄くず、昆虫標本、油性種子、宝石
輸出先:インド42%、パキスタン29%、タジキスタン8%、イラン3%、トルコ3%
輸入額:76億3000万米ドル
輸入額:泥炭、小麦、精製石油、砂糖、食用油、衣類、セメント、茶、機械類
輸入元:パキスタン39%、インド9%、米国8%、トルクメニスタン6%、中国6%
固定電話回線数:11万1000回線
携帯電話回線数:1970万9000回線
国別電話番号:93
ccTLD:.af
インターネット利用者数:約228万人
車両通行:右側通行
平均寿命:51.3歳 (男性49.9歳、女性52.7歳)

[日本との関係]
国交樹立:1930年11月19日
相手公館:大使館 (東京)
駐日相手国人数:2691人 (永住者187人)
相手輸出額:56万米ドル
相手輸出品:香水用の植物、宝石、石材、絨毯
日本公館:大使館 (カーブル)
在留日本人数:日本政府は安全上の理由から、アフガニスタンに滞在
          する日本人数を非公開としており、詳細は不明。
日本輸出額:4510万米ドル
日本輸出額:二輪車、自動車と部品、鉄鋼、タバコ製品、ゴム製品、機械類
現行条約:1930年 修好条約 (発効は1931年)
       2005年 技術協力協定

(注1)
信仰告白(シャハーダ)とは「アッラーの他に神は無く、ムハンマドはアッラーの使徒である」と個人が宣言すること。すなわち、イスラムの唯一神たるアッラーだけを神として認め、他のいかなる神も廃することに賛同する、と明言する行為のこと。この言葉を他のイスラム教徒や権威あるイスラム指導者が認める場で発した瞬間から、その人物はイスラム教徒として受け入れられ、イスラム共同体の構成員になるという(ただしシャハーダの口述はアラビア語で発した場合に限られる)。通常、国旗に使う場合はアフガニスタンのように国章に組み込むことが多いが、国旗内に直に書き込んだサウジアラビアソマリランドなどの国もある。

(注2)
国民議会のほか、国家政策の最重要事項に関しては、アフガニスタンに議会制が成立する前から存在する伝統的な合議体「ロヤ・ジルガ(国民大会議)」が、最終的な意思決定機関として機能する。ロヤ・ジルガは国民議会の議員、ならびに各州・各郡議会の議長により構成されるが、現行憲法下では非常設の緊急機関であり、平時の立法府はあくまでも国民議会である。


《国歌「国歌」》
制定:2006年
作曲:バブラク・ヴァッサー
作詞:アブドゥル・バーリー・ジャハーニー

この地アフガニスタン、全てのアフガン人の誇りなり。
平和の地、剣の地、その勇敢なる息子たち。

ここは全ての民族の祖国である。
バローチ人、ウズベク人、パシュトゥーン人、
ハザラ人、トルクメン人、タジク人。
また共にアラブ人、グルジャル人、パミール人、
ヌリスタン人、バラハウィ人、キジルバシュ人、
アイマク人、パシャエイ人。

青空に輝く太陽の如く、この地永久に栄えん。
アジアの中心として常にあり続けん。
我らは唯一神に従い、
我らは唱える「神(アッラー)は偉大なり」。
我らは唱える「神(アッラー)は偉大なり」。
我らは唱える「神(アッラー)は偉大なり」。

《国名の由来》
公用語のダリー語およびパシュトー語ではافغانستان(読みはダリー語がアフガースターン、パシュトー語がアフガースターン)と表記される。「アフガン人の国」を意味するが、アフガンとは最大民族パシュトゥーン人の自称であり、「山の民」を意味する。これにペルシア語で「○○の土地」を意味するstan(スタン)が合成され、国名となった。

旧国名
1823-
1926
 アフガニスタン首長国
(ダ)إمارة أفغانستان (イマーラ・アフガーネスターン)
(パ)د افغانستان امارت (ダ・アフガーニスターン・アマーラト)
(英)Emirate of Afghanistan (エミレイト・オブ・アフガニスターン)
1926-
1973
 アフガニスタン王国
(ダ)پادشاهي افغانستان (パーディシャーヒーイェ・アフガーネスターン)
(パ)د افغانستان واکمنان (ダ・アフガーニスターン・ワークマナーン)
(英)Kingdom of Afghanistan
  (キングダム・オブ・アフガニスターン)
1973-
1978
 アフガニスタン共和国
(ダ)جمهوری افغانستان (ジョムフーリーイェ・アフガーネスターン)
(パ)د افغانستان جمهوريت (ダ・アフガーニスターン・ジュムフーリヤト)
(英)Republic of Afghanistan
  (リパブリック・オブ・アフガニスターン)
1978-
1987
 アフガニスタン民主共和国
(ダ)جمهوری دمکراتی افغانستان
  (ジョムフーリーイェ・ディムクラーティーイェ・アフガーネスターン)

(パ)د افغانستان دمکراتی جمهوریت
  (ダ・アフガーニスターン・ディムクラティー・ジュムフーリヤト)

(英)Democratic Republic of Afghanistan
  (デモクラティック・リパブリック・オブ・アフガニスターン)
1987-
1992
 アフガニスタン共和国
(ダ)جمهوری افغانستان
(パ)د افغانستان جمهوريت
(英)Republic of Afghanistan
1992-
2002
 アフガニスタン・イスラム国
(ダ)دولت اسلامی افغانستان
  (ダウラッテ・エスラーミーイェ・アフガーネスターン)
(パ)د افغانستان اسلامی دولت
  (ダ・アフガーニスターン・イスラーミー・ドウラット)
(英)Islamic State of Afghanistan
  (イスラミック・ステイト・オブ・アフガニスターン)
1996-
2001
 アフガニスタン・イスラム首長国 (タリバーン政権)
(ダ)امارة اسلامی افغانستان
  (イマーラ・エスラーミーイェ・アフガーネスターン)
(パ)د افغانستان اسلامي امارات
  (ダ・アフガーニスターン・イスラーミー・アマーラト)
(英)Islamic Emirate of Afghanistan
  (イスラミック・エミレイト・オブ・アフガニスターン)
2002-
2004
 アフガニスタン
(ダ・パ)افغانستان
(英)Afghanistan

1996-2001年の間はアフガニスタン・イスラム首長国(タリバーン政権)とアフガニスタン・イスラム国(北部同盟)が競合し、互いに政権の正統性を主張していた。国際的には北部同盟が承認されていたが、一時は国土の9割をタリバーン側が支配し、パキスタン、サウジアラビア、アラブ首長国連邦の3ヶ国はタリバーン政権を承認していた。


★(c) 2006 Lexicon CC BY-SA 3.0 外枠付加

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プロフィール

嫁ドリル

Author:嫁ドリル
国旗と酒をこよなく愛する関西女。
カイロ、ドバイ、カルガリー駐在員を経て、現在は関東で働きながら旦那と1女1男の4人暮らし中。

国旗に関しては、まずは基礎知識カテゴリを熟読して下さい。

ツイッターやってます。基本的に更新情報はここでつぶやいてます。

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