カンボジア

カンボジア
កម្ពុជា (カンプーチア) (クメール語、※)
Cambodia (カンボゥディア) (英語)

Flag_of_Cambodia.png
※クメール文字フォントが無いと文字化けします。こちらへどうぞ。

東南アジアのインドシナ半島南部に位置するカンボジアは、敬虔な仏教王国として知られます。古くからチャンラ(真臘)など独自の国家が築かれ、9世紀から15世紀にかけては半島の大半を支配する強大なクメール王朝が繁栄しました。有名なアンコール遺跡群もこの頃築かれ、王朝名はそのまま民族名および彼らが話す言語名として、現在まで用いられています。しかし1431年にシャム(現タイ)が王都アンコールを征服すると、都を転々としながら王朝の維持に苦心する時代が続き、17世紀に入るとベトナムの干渉も受けるようになり、国力は衰退していきました。そんな時代が長く続いた後、19世紀に植民地を求めるフランスが半島に進出し、これを好機と見たカンボジアは1863年にフランスと保護条約を締結。間接支配を受けながらも同国軍の力で周辺国の脅威を退け、国土の維持を図ります。1887年にはベトナム、ラオスと共にフランス領インドシナ(いわゆる仏印)に組み込まれましたが、クメール人の心の故郷であるアンコール遺跡周辺は、1907年にフランスの圧力に屈したシャムから返還されました。

第二次大戦中は日本軍が進駐し、終戦直前の1945年3月には独立を宣言したものの、翌1946年に再びフランスの支配が復活。しかし一度火がついた独立運動は収まらず、1949年に内政自治権を与えられ、1953年には改めてカンボジア王国として正式な独立を達成しています。独立後のカンボジアは、伝統的な稲作農業を中心としながらも、アンコール遺跡などの豊かな観光資源を生かして経済を発展させ、一時は東南アジアの文化センターと呼ばれるほどになりましたが、1970年のクーデターで王政が打倒されると、後にカンボジア内戦の名で知られる長い動乱の時代に突入。数百万人の国民の犠牲、経済・社会基盤の崩壊により国土は荒廃しました。諸外国の思惑もあって紛争は長期化しましたが、1990年に東京で各派参加の和平会議が開催されたのを皮切りに内戦終結の機運が生まれ、翌1991年にようやくパリで和平協定を締結。国連による2年間の暫定統治期間中に兵士の武装解除、難民の帰還、議会選挙、新憲法制定などが行われ、1993年に新体制のもとでカンボジア王国が復活しました。20年近くにわたった内戦の傷跡は深く、今でも復興途上の貧しい状態が続いていますが、近年は農業と観光業以外にも新たに繊維産業を中心とする軽工業が成長軌道に乗っており、旧王国時代のような繁栄を取り戻す努力が続けられています。

カンボジアの国旗は政治体制の変化に伴い、コロコロと変わってきました。現在の国旗はフランスの保護国だった1948年に制定され、1970年のクーデターで王政と共に一度廃止されたものの、1993年の王政復古に伴い23年ぶりに復活しました。青と赤はクメール人の伝統色で、青は国王の権威、赤は国民の忠誠を表します。中央には世界遺産に指定されているアンコール・ワットが、仏教の象徴である白で描かれています。内戦期のいずれの歴代政権も(国土を破壊し尽くしたポル・ポト政権ですらも)、アンコール・ワットだけは国旗から外していない辺り、カンボジアにとってこの遺産がどれほど誇らしいものであるかがうかがい知れますね。

縦横比:2対3

【旧国旗】
Khmer_Republic.png
独立後のカンボジアでは、観光業や米の輸出によって経済が比較的順調に推移していたのに対し、政治は隣国で繰り広げられていたベトナム戦争に対する姿勢をめぐって右派と左派が激しく対立。政権側はアメリカを非難する左派に近いスタンスをとっていました。そんな政権側に業を煮やした軍部が、支持国を増やしたいアメリカの支援を受けて1970年にクーデターを決行。王政が打倒され、親米右派のロン・ノル将軍を大統領とするクメール共和国が成立しました。

しかし遠く離れたアメリカ以外にさしたる支持基盤を持たないロン・ノル政権下の新共和国体制は、内政面で絶えず政情不安に見舞われており、左派の中でも特に急進的なポル・ポト率いるカンボジア共産党(クメール・ルージュ、「赤いクメール」)が私兵組織を使って軍事攻勢に出ると、政権は瞬く間に瓦解。ロン・ノルは1975年4月にアメリカへ亡命し、同月中にクメール・ルージュが首都プノンペンを陥落させ、クメール共和国は成立からわずか5年で崩壊しました。

クメール共和国の国旗は、配色こそ王政時代のものを踏襲していますが、親米政権だけあってアメリカの星条旗を非常に意識したデザインとなっています。アンコール・ワットは赤地と共にカントン部へ移動され、青地の中には新たに3つの星が配されました。これは新共和国を構成する3つの要素、すなわち国民・仏教・共和制、国家の三権(司法・立法・行政)、仏教の三宝(釈迦、法、僧)を象徴します。1975年廃止。

Democratic_Kampuchea.png (★See below)
1975年、親米右派政権を倒したポル・ポト率いるクメール・ルージュは、翌1976年に国名を民主カンプチア(民主カンボジア)と改称。国旗も赤地に黄のアンコール・ワット(政権側は単なるモニュメントと発表していた)と、社会主義色の強い意匠に変更されました。

農村を基調とした極端な原始共産主義社会を目指したポル・ポト政権は、知識層や文化人を「腐ったリンゴ」と呼び、農村社会には不要な存在と考え、片っ端から殺害しました。その基準は非常に恣意的で、学者、仏教関係者、医師、教師、技術者、芸術家のほか、文字が読めたり、果ては眼鏡をかけているだけでも粛清の対象になったとのこと。わずか4年間のポル・ポト政権下で、少なく見積もっても200万人もの国民が殺されたと考えられており、知識層・文化人の消滅は、その後のカンボジアの復興において大きな痛手となりました。またこの時代は貨幣も廃止され、農産物(特に米)を通貨の代わりとした物々交換が強制されています。こうした経緯もあり、民主カンプチアは現在では極めて悪名高い政権となっています。

1979年、ベトナム軍の支援を受けたヘン・サムリンの勢力により首都プノンペンが落とされると、ポル・ポト派は亡命政府となり、内戦終結までヘン・サムリン政権と対峙し続けました。しかし後述のように国連でのカンボジア代表権はポル・ポト派が1989年総会まで維持していたため、当時の国際社会では民主カンプチアの国旗がカンボジアの国旗として翻っていたのです。

Peoples Republic of Kampuchea (★★See below)
1979年、同じ左派勢力ながらポル・ポトの原始共産主義路線とは一線を画すヘン・サムリンにより、カンプチア人民共和国(カンボジア人民共和国)が樹立され、ポル・ポト時代のような大虐殺はようやく収まりました。それに伴い国旗にもマイナーチェンジが加えられ、1989年まで用いられています。

以後内戦は、亡命政府となった民主カンプチアと実行支配を確立したカンプチア人民共和国の争いとなりますが、国際社会は当時内戦の実態やポル・ポトによる大虐殺を把握しておらず、ベトナム軍が支援するカンプチア人民共和国を傀儡政権と見なし、非難しました。国連でもそれは同じで、1979年の国連総会でカンボジアの代表権は引き続き民主カンプチアに帰属するという決議が採択されています。この決定は、内戦の状況が理解された現在では国連の歴史における重大な汚点と見なされています。

State_of_Cambodia.png (★★★See below)
1989年にベトナム軍が撤退し、カンプチア人民共和国はカンボジア国と改称。それに伴い国旗も変更され、2代続けて抽象的なイメージで描かれていたアンコール・ワットが再びリアルな意匠に戻り、色も青が復活しました。下記の国連暫定統治旗と並び、1993年の現国旗制定まで使用。

この時期は内戦もいよいよ末期であり、和平への機運が高まった時期でもあります。またベトナムの撤退を受けて、1990年の総会から国連におけるカンボジアの代表権も、民主カンプチアからカンボジア国に移っています。

UNTAC.png (★★★★See below)
1991年、内戦当事者がパリで和平合意し、暫定政権としてカンボジア最高国民評議会(SNC)を樹立。国連がSNCの助言のもとで一定期間カンボジアを統治し、その間に新たな国家体制作りを行うことになりました。そのため国旗も国連旗にならって水色の地色を使い、カンボジアの国土の形を配したものに変更されました。国土の中にはクメール語でカンボジアと書かれています。

国連による暫定統治という異例な事態のため、この旗のみアンコール・ワットが描かれていません。1993年に暫定統治は終了し、23年ぶりにカンボジア王国が復活しました。国旗も王政期のものが復活し、現在に至ります。


カンボジア王国
ព្រះរាជាណាចក្រកម្ពុជា (プレア・リアチアナーチャック・カンプーチア)
Kingdom of Cambodia (キングダム・オブ・カンボゥディア)

Map_of_Cambodia.gif

統計データは原則として2015年時点のもの。

[地理]
位置:アジア
面積:約18.1万km² (日本の半分弱)
人口:約1568万人
都市人口率:20.7%
首都・最大都市:プノンペン (ク:ភ្នំពេញ 英:Phnom Penh)
主要民族:クメール人(※)90%
       ベトナム系5%
       中国系1%
       少数のラオ人、タイ人など。
       ※カンボジア政府がイスラム系クメール人と呼び、公式の
        統計上は「クメール人」の項目に包括しているチャム人
        を含む。ただし民族学上は、チャム人はクメール人とは
        別民族とみなされる場合が多く、中部のコンポンチャム
        州を中心に人口の1~2%を占めると考えられる。
主要言語:クメール語が公用語で、国民の大半が母語として使用して
       いる。他にベトナム語、中国語、チャム語など各民族語も家
       庭やコミュニティ内で話されるが、そういった人々も公的な
       場ではクメール語を用いる場合が多い。
主要宗教:仏教96%
        上座部仏教(国教)91%
        大乗仏教5%
       イスラム教(ほぼ全てがスンナ派)2%
       キリスト教1%
       北部の高地ではこれらの宗教が伝搬する以前の精霊信仰
       も、少数だが残存している。その文化圏に属するクメール人
       を高地クメール人と呼び、他のクメール人と区別する場合が
       ある。

[政治・軍事]
独立:1949年11月9日(自治国)、1953年11月9日(完全独立)
国連加盟:1955年12月14日
政治体制:立憲君主制、議院内閣制
元首:国王
    「王室評議会」が、30歳以上の王族男子の中から国王を選出。
    ここで言う「王族」とは、ノロドム家、シソワット家、アンドゥアン家
    の3家を指す。王室評議会は首相、上下両院の議長・副議長、
    カンボジア仏教界の高僧など9名で構成される。
政府:閣僚評議会(内閣に相当)
    国王が下院最大会派の指導者を首相に任命。
    他の閣僚は首相の指名に基づき、国王が任命。
議会:二院制の国会
    ●元老院(上院)
     61議席。57議席は下院議員と地方議会議員による合同会議
     の場で選出。残る4議席は国王による任命枠と下院による任命
     枠が2議席ずつ。任期5年。
    ●国民議会(下院)
     123議席。直接選挙制(比例代表制)。任期5年。
政党制:カンボジア人民党による一党優位制
     (形式上は多党制)
国政選挙権:18歳以上の国民全て
兵役制度:徴兵制
国防費:3億8300万米ドル
軍組織:王立カンボジア軍
     陸軍7万5000人
     海軍2800人
     空軍1500人
     国家憲兵隊1万人

[経済・通信・その他]
中央銀行:カンボジア国立銀行
通貨:リエル (riel, KHR)
国内総生産(GDP):167億7800万米ドル
1人当たりGDP:1159米ドル
GDP構成比:農林水産業28.6%
        鉱工業27.9%
        サービス業43.5%
労働人口:810万人
失業率:不明 (5%未満と推計される)
輸出額:84億5300万米ドル
輸出品:衣類、履物、イモ類、米、木材、皮革、天然ゴム、ナッツ類、自転車
輸出先:米国23%、日本13%、英国8%、ドイツ8%、カナダ7%
輸入額:119億2000万米ドル
輸入品:繊維原料、機械類、金、精製石油、自動車、タバコ製品、鉄鋼
輸入元:タイ29%、中国22%、ベトナム16%、香港6%、シンガポール6%
固定電話回線数:25万6000回線
携帯電話回線数:2085万1000回線
国別電話番号:855
ccTLD:.kh
インターネット利用者数:約176万人
車両通行:右側通行
平均寿命:64.6歳 (男性62.0歳、女性67.1歳)

[日本との関係]
国交樹立:1953年1月9日
相手公館:大使館 (東京)
駐日相手国人数:6381人 (永住者1563人)
相手輸出額:11億3800万米ドル
相手輸出品:衣類、履物、皮革
日本公館:大使館 (プノンペン)
在留日本人数:2492人 (永住者78人)
日本輸出額:3億5500万米ドル
日本輸出品:自動車、二輪車と部品、機械類、船舶、繊維原料、鉄鋼
現行条約:1955年 友好条約
       1959年 経済技術協力協定
       2007年 投資協定
       2016年 航空協定


《国歌「王国」》
制定:1941年 (1970-1993年は廃止)
作曲:F・ペルショー/J・ジキル
作詞:チュオン・ナット

天国は我らの国王を護り、幸福と栄光を与える。
我らはそなたに身を捧げる者。
我らの魂と運命を統べ、君臨せし者。
ただ1つの存在として、主権を確立せし者の後継者として、
誇り高きクメールのかつての王国に導きたまえ。

《国名の由来》
クメール語ではកម្ពុជា(Kampuchea、カンプーチア)と表記され、これがフランス語でCambodge(カンボッジ)、更に英語のCambodia(カンボゥディア)へと変化した。KampucheaとCambodiaの使い分けは曖昧で、英語表記にもかかわらずKampucheaを用いた政権も過去に存在した(ポル・ポト政権の民主カンプチアもその1つ)。

カンプーチアという名称は「カンプーの子孫」を意味するカンプージャが由来だが、カンプーとは伝説上のクメール人(カンボジアの最大民族)の祖先であり、建国者と伝えられるバラモン僧の名前。ジャは「○○の子孫」を表す。全てのクメール人はカンプーの子孫である、という伝承に基づく地名である。なお、インターネットの国別トップレベルドメイン(ccTLD)をはじめ、2文字で略す必要がある場合は、国名のカンボジア(カンプーチア)ではなく、クメール(Khmer)に基づくKHが使われる場合が多い。

旧国名
1953-
1970
 カンボジア王国
(ク)ព្រះរាជាណាចក្រកម្ពុជា
(英)Kingdom of Cambodia
1970-
1975
 クメール共和国
(ク)សាធារណរដ្ឋខ្មែរ (サティアラナクラート・クメール)
(英)Khmer Republic (クメール・リパブリック)
1975-
1976
 カンプチア
(ク)កម្ពុជា (カンプーチア)
(英)Kampuchea (カンプーチア)
1976-
1979
 民主カンプチア
(ク)កម្ពុជាប្រជាធិបតេយ្យ (カンプーチア・プラーチアティッパデイ)
(英)Democratic Kampuchea (デモクラティック・カンプーチア)
1979-
1989
 カンプチア人民共和国
(ク)សាធារណរដ្ឋប្រជាមានិតកម្ពុជា
  (サティアラナクラート・プラチアメアニット・カンプーチア)

(英)People's Republic of Kampuchea
  (ピーポゥズ・リパブリック・オブ・カンプーチア)
1989-
1993
 カンボジア国
(ク)រដ្ឋកម្ពុជា (ラート・カンプーチア)
(英)State of Cambodia (ステイト・オブ・カンボゥディア)



★(c) 2009 Zscout370 CC BY-SA 2.5
★★(c) 2009 Xufanc CC BY-SA 3.0
★★★(c) 2006 Lexicon CC BY-SA 3.0
★★★★(c) 2006 Lexicon CC BY-SA 3.0strong

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プロフィール

嫁ドリル

Author:嫁ドリル
国旗と酒をこよなく愛する関西女。
カイロ、ドバイ、カルガリー駐在員を経て、現在は関東で働きながら旦那と1女1男の4人暮らし中。

国旗に関しては、まずは基礎知識カテゴリを熟読して下さい。

ツイッターやってます。基本的に更新情報はここでつぶやいてます。

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